閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

870 かつ丼の話

 カツ丼より、かつ丼と書く方が美味そうな字面に思う。カツレツの丼めしなんだから、カツ丼だろうと云うひともいるだろうし、尤もな指摘なのも認めるけれど、これはもう好みのちがいと諦めてもらいたい。

 勿論ここで云うのは、とんかつ(矢張りひらがな表記がしっくりくる)を少々品の惡いくらいの甘辛くて濃いつゆで炊き、溶き卵でとじたのを、丼めしに乗せたやつを指す。ウスター・ソースだの味噌たれだのをくさす積りはなく、馴染みの程度がちがっているのです。

 とは云うものの、少年だったおれとかつ丼との縁は、ハムカツのように薄かった。六つかしい事情の為ではなく、祖父母(明治生れである)と同居していたから、カツレツみたいにハイカラでかたい食べものは出にくかったのだ。

 思い返すと廿歳前後の数年間が、食慾の一ばん旺盛だった時期である。梅田の饂飩屋で饂飩とかつ丼のセット(卅数年前の当時で確か五百円くらいだったか)を平らげて胃袋が苦しいと感じなかった。詰りかつ丼と本格的につき合ったのはおそらくこの何年間で、それからおれの食慾は、緩かな坂を転がる球のように萎み續けている。

 [鬼無里い]という呑み屋があった。過去形なのは何年も前に畳んでしまったからだが、そこで出す"かつ煮"…かつ丼の頭にあたる卵とじのとんかつ…が抜群に旨かった。摘みになるように味を調えたつゆは多め、玉葱と長葱が一緒に煮てあったか。カツレツに求められる"衣のふわりとさくさく"からは何歩も距離を置き、"豚肉に衣をつけて揚げてから煮る"料理になっていた。摘みかつ呑みながら

 (〆にごはんが一口、慾しいものだなあ)

と思ったのは忘れ難い。それは丼めしの意ではなく、"かつ煮"のお皿にごはんを入れ、つゆを綺麗にさらえたいという慾求だったけれど。

 併し[鬼無里い]の"かつ煮"式が丼めしに適うだろうと考えるのは間違いない。盛りきりの丼めしに

 とんかつ。

 たっぷりの溶き卵。

 甘辛くて濃いつゆに薄切りの玉葱。

 かつ丼は要するにこれだけで完成する。三つ葉までは何とか妥協してもいいが、グリンピースのようにちゃらちゃらしたの…こう書けば判るとおり、おれはグリンピースがきらいなんである…は要らない。要は簡易な丼ものなのだと考えるとかつ丼は、秘傳のたれがどうこう云う鰻丼や、種の鮮度と仕事が云々とのたまう天丼に感じる魯山人的な厭みから最も遠く、我われの胃袋に最も近いと思えてくる。

 後はおれの胃袋に(加齢の結果として)、かつ丼をほうり込める余裕が無くなった問題が残る。勿論、十分以上の空腹を感じれば事情は異なるだろう。かつ丼を堪能するには、一日の町歩きが求められそうで、それはきっと惡くない。