起床午前7時。好天。
サッポロ黒ラベルと助六で朝めし。チェックアウト後、山梨県立美術館を目指す。バスの時間の関係で、驛前の“よっちゃばれ広場”を眺めると、ラーメンだが何だかの催しが開かれてゐた。惡くはないが、麦酒を飲めさうな気配がなかつたので、その場を後にバスに乗る。美術館まで15分。
美術館の前には公園があり、木々が繁つてもゐる。例年は紅葉が鮮やかなのだが、どうか知らと気にしながら、頴娃君は特別展のドービニーを観る。わたしは愛しのお針子カトリーヌに逢ひに。何べん見ても飽きることがないから、何べんも絵の前に戻り、戻りつつ彼女…この絵については稿を改めて書かねばならぬと思つた。ひよつとして係員は妙なひとがゐるなあと感じただらうか。
館内には[角笛を吹く牛飼ひ]が新しく収蔵されてゐた。題名は牛飼ひだけれど主役は牛で、暢気なのか寂しげなのか。このモチーフをミレーは好んだのか、解説文によると幾つか類似の構図で描いたさうだ。[種を蒔くひと]もさう(この美術館とボストンに収藏されてゐる。スケッチや下描きを含めればもつとあつたかも知れない)だが、あの画家はどうやらしつこい性格の持ち主だつたのではないか。かれが寫眞家だつたら…肖像寫眞が残されてゐるから、既に基本的な技術はあつたと考へていい…、どんな態度で被寫体に臨んだだらう。
外に出ると色づきが不安だつた紅葉も光を彩りを与へられたお蔭で惡くない。目を遠くにやると、やや霞みながら富士の姿を見ることも出來た。いい気分である。但し美術館の周辺はどうもゲームのポイントにもなつてゐるらしく、プレイヤーらしいひとを何人か見掛けた。大聲であれこれ話し込んでゐて、場所が広いから八釜しくはなかつたけれど、藝術的ではないなあと息をついた。
通りに沿つたセブンイレブンでキリン・ラガーと親子丼と唐揚げ串。親子丼なのにどうして唐揚げ串まで買つたのだらう。不思議に思ひつつ、美術館前の公園で晝めしとする。コンビニエンス・ストアの食べものだから、大してうまくない筈だが、好天で凪いだ公園が、いい調味料になつてくれた。頴娃君はあんまり空腹ではないと云つてゐたのに、もつ煮と唐揚げと中華まんを頬張り、ヱビスに七賢まで飲んでゐた。かれの食慾は信用ならない。
再び館内に入ると、ロビーで小規模なコンサートが催されてゐた。ピアノとソプラノ。歌劇から短い歌を数曲。ソプラノを生で耳にするのは初めてだつた。広くないロビーとは云へ、マイクを使はずに聲を響かせたのには驚いた。終つてから大きく手を拍いたら、丁寧にお辞儀を返してくれたから、きつといい歌手なのだと思ふ。午后3時2分發のバスで甲府驛に戻つた。
驛前に高校生が大勢、集つてゐる。書道フェスティバルだか何だかを開きたいから、募金をお願ひしますと聲を張り上げてゐて、さういへば朝からゐたなあと思つた。一所懸命にちらしを配つてもゐて、旅行者だからもらつても足を運べない。説明するのも面倒だから、少し距離を取らうとしたら、頴娃君が女生徒から受け取つてゐた。きつとこの催しに熱心で、可愛らしい娘さんだつたのだな。セリオに入り、まるき葡萄酒の“ぎゅっとワイン”とアサヒのドライプレミアム“豊醸”、それから焼き鳥を3本(肉とねぎまと皮)を買ふ。頴娃君は驛構内に入つてから、壜詰め地麦酒を買つて
「(お店の)お姉さんが(蓋を)抜いてくれた」
と喜んでゐた。乗車は午后3時55分發のスーパーあずさ22號。
甲府驛を出たのは約3分遅れ。途中の停車は八王子と立川のみ。ゆつくり飲みながら窓外に目をやると、陽が暮れ落ちなんとする時間帯。残照が青と紅に彩られ、美事な夕景を呈してゐる。佳い情景を目に出來たねえと云ひあふ内、その余韻も失せて外は夜になつた。焼き鳥を頬張り、“ぎゅっとワイン”を含んでゐたら(ちよつとした晩酌ならいける)、頴娃君が唐突に
「葡萄酒の味見をする時、口を大きく、もごもご動かしますな。あれあ、何故です」
「ちやんとした理由は、判らんです。わたしの場合だと、空気を混ぜて鼻に香りを通すのと、口の中全体に行き渡らせてゐる気がします」
「さうですか。お酒と少々、異なりますな」
納得し難い表情だつたので
「すりやあ貴君、正しいところは、U氏に訊くべき疑問ではなかつたかと思ふですよ」
と云ふとかれはあつと小さく聲をあげ
「仕舞つた。昨日は思ひつかなかつたよ」
これあ次の機会を計劃しなくてはならんみたいですなあと笑つてゐたら、スーパーあずさ22號はいつの間にやら八王子を過ぎ、立川も過ぎてゐる。塵を片付け、荷物を整理する内、特別急行列車は恙無く新宿驛に滑り込んだ。3分の遅れは綺麗に解消されてゐたから、運転手が上手く調節したのだらう。降りてから、家に帰るまでが遠足だよと云ひあつた。解散してから煙草を吹かして帰宅。罐麦酒を1本空けて、布団に潜つた。