閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

953 遠ざかる

 さういへば長いこと、洋食から遠ざかつてゐる。

 ハンバーグ。

 クリーム・コロッケ。

 チキンカツ。

 ポーク・ソテー。

 烏賊や白身魚、玉葱のフライ。

 ビーフ・シチュー。

 サウザンアイランド・ドレッシングをたつぷりかけた生野菜に、マッシュしたポテト、ケチャップで炒め和へたスパゲッティ。

 それから柴漬け乃至たくわん、お味噌汁、ごはん。

 卓の塩と胡椒は当然として、何故だか醤油や七味唐辛子、ぽん酢に辣油まで置いてあつたりもする。

 ここに壜麦酒の一本も奢れば、もう大御馳走で…外ツ國の人びとの目には、どう映るのだらう。前菜もデザートも見当らず、葡萄酒に適ひさうでもない。寧ろ冷して似合ふ、辛くちのお酒との相性がよささうで、ぜんたい日本人は何を考へてゐるのかと云はれる気がする。我が賢明な讀者諸嬢諸氏には念を押すまでもなからうが、洋食は日本化した西洋料理ではなく、日本の食べものを西洋料理風に変化さした結果だから、我われには不思議でも何でもないけれど。

 西洋的な視点では、奇異とも思はれるメニュが成り立つのは、お酒の所為である。尊敬する吉田健一が教へてくれるところによると、お酒…日本酒は最初から最後まで、ひとつの銘柄で通せる。葡萄酒に目を向けると、何を食べるかによつて、赤の重いのかるいの、白なら辛いのあまいの、様々撰ばねばならない。西洋ではさういふ食事が成り立ち、コースの料理として發展してきたからで、これだと料理を一皿に纏めるのは無理がある。かれら(のご先祖)が惡いなど云ふ積りはなく、優劣の話でもなく、ちがつてゐるといふことです。

 大振りの白く清潔なお皿に、デミグラス・ソースを纏つたハンバーグと、ウスター・ソースを待つ烏賊フライ、塩胡椒が効いたポーク・ソテー(奇妙なことだが、生姜焼きになる場合もある)が並べられ、隣に湯気をたてるごはんとお味噌汁がある様は、幸せと豪勢と満足の三位一体と云つていい。その三位一体から遠ざかつてゐるのは、偏にこちらの胃袋が草臥れてゐる事情に過ぎない。我がわかい讀者諸嬢諸氏よ、鴨のオレンジ・ソースに舌鼓を打ちながら、洋食屋のクリーム・コロッケと白身魚のフライも試してみ玉へ。後者はきつと、この國でしか味はへない食べものだから。