出してもらへれば食べるとして、自分から積極的には食べない…さういふ食べものの代表格に海老を挙げたい。積極的に食べないだけで、口にしたら旨いとは思ふ。例外は早鮓やお刺身の甘海老くらゐか。併し無いなら無いで平気だから、海老全般に冷淡なのだらう。我ながら不思議である。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の中にゐる熱心な海老愛好家も、首を傾げるにちがひない。
どんな時に海老を食べるのかといふと、上に挙げた早鮓やお刺身でなければ、天麩羅饂飩(蕎麦でもかまはない)、祝ひ事の焼き海老、伊勢海老程度しか思ひ浮ばない。…いやもうひとつ、海老フライを忘れてゐた。ミンチカツ、クリーム・コロッケと並んで洋食界の三大フライといつてもいいのに、直ぐ出なかつたのは矢張り冷淡さゆゑか。
洋食と書いた通り、海老一尾を丸々フライにした料理は、日本發祥である。魚の天麩羅からの転用、でなければ天麩羅をカツレツに応用した結果と思はれる。揚げもの史を俯瞰するのは面倒だからここでは省くけれど、ディープ・フライといふ技法が事前にあつて出來た食べものが海老フライだと考へていい。大した工夫である。
丸々肥つた大振りな海老がお皿からはみ出る様は、確かに花やかだし豪華でもある。尊敬する内田百閒の[食而]といふ短い随筆に
海老のフライを一皿届けて來たのである。女中が父の食膳に運んだ。一緒に行つて、にほひを嗅いで見るに、嘗て知らない不思議な香気が、お皿の上に立ち騰り、恍惚とした気持ちになつた。生れて始めて経験するうまさうな匂であつた。少しばかり切つて、私にも食べさしてくれた事だらうと思ふけれど、その味は覚えてゐない。
と書いてある。昭和九年に發行した本で"卅幾年前"の話だから明治の話だらう。この海老フライ一皿は、郷里岡山で父君が出前さしたもので、当時の岡山は田舎町、が惡ければ、田舎町の中では比較的都会に近い程度だつたにちがひなく、珍しいとはいへ、半世紀も経たない内に、海老フライ乃至洋食が、出前で註文出來る程度まで広がつてゐたと解る。流行や情報、ハウ・トゥの伝播は相当に速かつたのだな。尤もフライなら、前時代からの技術があれば応用出來る。田舎町の料理屋の大将でも
「こんなら、出來ようワイ」
と呟いても不思議ではない。現に百閒少年が見た海老のフライは、[梶仙]といふ料理屋が岡持ちに入れて持つてきた。元は煮魚だのおひたしだの天麩羅だのを料つてゐたのだらう。
そこで気になるのは、その[梶仙]が海老フライに何か調味料を添へたのかといふ事で、上の一文でははつきりしない。百閒先生が記憶を辿る時は、微に入り細を穿つのが常なのを思ふと、お皿にあつたのは海老フライだけで、塩や醤油や辛子や味噌、ましてやウスター・ソースなんて、見当らなかつたとも考へられる。[梶仙]の大将が
「そねいな事まで、判りやあせんもの」
さう云つたとして、文句は返しにくい。
それで思ひ出さうとしてゐるのだが、わたしは海老フライをどんな調味料で食べてゐたか、どうもあやふやである。幼少の頃、フライもの(主に白身魚のフライ)を食べる時は、マヨネィーズとケチャップとウスター・ソースを混ぜたやつだつた。今は気分次第で醤油やぽん酢、塩、マヨネィーズ、ケチャップ、ウスター・ソース、稀にタルタル・ソース、或は大根おろしに辛子、大蒜や生姜(どちらもすりおろし)、味噌(マヨネィーズにちよいと隠すとうまい)、チリー・ソースを使ふ。そこで改めて海老フライはどうだつたか…矢張りあやふやなままである。
では仮に今、目の前に海老のフライが登場したら、何をかけたくなるだらうか。眞つ先に思ひ浮ぶのはウスター・ソースなのだが、味が濃すぎる気がする。醤油だつたらフライにも天麩羅にも似合ふけれど、どちらでも登場する海老を相手に、わざわざ使はなくてもいいと思へる。ここで少し落ち着くと、海老の味自体はごく淡泊で、寧ろ歯触り舌触り、仄かな香りを樂む食べものである。極端な話、海老フライは海老の歯触り舌触りを使つた、ソースを食べる料理とも考へられて、その意味では鯵フライやハムカツの系統に属する。となると、ソースそのものが食べものに近いのが望ましく、であればタルタル・ソースが最良の撰択になる。どうです、中々論理的な展開でせう。
うで玉子。
玉葱。
胡瓜。
ピックルス。
たくわん。
辣韮。
ハムの切れ端を隠したり、ほんの少しのカレー粉をまぶすのもいいだらうし、柴漬け、檸檬、酸つぱい林檎も惡くなからう。海老の微かな香りを大事にしたければ、その辺は調へる必要はあるとして、兎にも角にも、色々をたつぷり混ぜるのが好もしい。なに、作りすぎたところで、直ぐに食べ尽して仕舞ふから、気にしなくても宜しい。食べる時にたつぷり乗せるのが望ましいのは勿論である。かう書いてから、どこで見掛けたか、記憶に無いのだが、海老フライを
「タルタル・ソースを美味く食べる為の棒である」
と云つたひとがゐるのを思ひ出した。当人は冗談半分の積りだつたかも知れないけれど、意外なくらゐ、海老フライの正しいところを衝いてゐるのではないかと思はれる。