閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

980 長寿への懸念

 廿歳そこそこの頃、五十歳を過ぎて生きるとは思はなかつた。卅年後に生きてゐる自分の姿を、想像するのは六つかしかつた。その感覚は今も、からだの隅に残つてゐる。

 (おれは本当に、半世紀余りも、生きてきたのだらうか)

さう不思議に思ふ時もある。年齢に対する(精神的な)成長の度合ひを、グラフに出來るなら、私は同世代の平均から、著しく劣つてゐる、と分析されさうである。

 

 併し實際には、生きてゐる。思ひ出すと、父方母方、いづれの祖父母も、長寿を全うして、浄土へ行つた。これを書いてゐる現在、幸ひにして私の両親も健在であつて、どうもさういふ血筋と云へさうな気がする。

 だとすれば私には、卅年くらゐの余命があるらしいとなつて、慶賀に値するものか、些かの疑念を感じなくもない。うまい酒肴を堪能して、悠々と布団に潜り込み、眠つたついでにうつかり死んでしまふのが、理想と云へば理想なのだが、世の中そこまで、私の都合にあはしてはくれまいな。

 

 ヱビス・ビールの小壜を一本と、ポテト・サラドに焼き餃子。鯵フライやハムカツもいい。お酒に移るなら、小澤酒造の[蒼天]を奢らうか。そこに上出來の揚げ出し豆腐、ちよつとしたお刺身。玉子焼きと牛肉の赤身をどうかしたの。後は粕汁に梅干しとお漬物、それからごはんがあれば、満腹になり満足を得るのは間違ひない。

 黑麦酒と葡萄酒と黑糖焼酎はどうなる。

 豚の角煮。鰯の塩焼き、鯖の一夜干し、鯵のたたき。蛸と胡瓜の酢のもの。それから各種のピックルス。島辣韮に諸々のちやんぷるーにポーク玉子。チーズとクラッカー、生ハムとオリーヴ油。更に酢豚に鶏の唐揚げ、玉子とトマトの炒めもの。叉お味噌汁や豚汁、きつね饂飩に掻き揚げ蕎麦に冷し中華に素麺。焼き鳥だのもつ煮もつ焼きだの串かつだのはどうなる…と思ふと、酒肴を堪能して、眠つて死ぬにしても、何日かを要することになる。

 

 堪能と満足と満腹と眠り(叉その先の死)といふ、ごく原始的な快感の為にすら、時間が掛かるのを、現代の贅沢ゆゑと見立てれば、何とはなしに、哲學の風味を散らした感じになるだらう。ではあるが、上の段まで書いた私は最初に

 (死ぬ準備も、面倒なのだなあ)

と思つた。殺風景も甚だしい。尤も仮に余命が、卅年ほどあるのなら、それだけの時間を死ぬ準備に費やせるのだ、と視点をずらせもする。そつちの視点なら、長寿も決して惡くないと思へてきて、懸念も解消される。