閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1008 天狗舞ふ夜

 玉子を使つた料理が何種類あるのか、知らないけれど、オムレツやスクランブルド・エグス、目玉焼き(ハムエッグやベーコンエッグも含めて)と並んで、玉子焼きがトップランカーなのは、間違ひないと思はれる。

 某日の夕方、馴染んだ呑み屋の品書きに、玉子焼きを見つけたので、躊躇せず註文した。さうしたら大将が

 「明太マヨと、大根おろしがありますよ」

確めてきた。躊躇せず、大根おろしにしてもらつた。玉子焼きと大根おろしは、黄金の組合せである。

 待つこと暫し、少し焦げのある玉子焼きが登場した。黑いお皿と、玉子の黄いろと、大根おろしの白が好もしいコントラストで、頬が綻ぶのを我慢出來なかつた。薑を添へてほしかつた気もするけれど、すりやあ贅沢といふものか。

 摘むと果してうまい。甘みが少々感じられる。大将は近畿人なんだが、東京人の舌にあはしたのだらう。文句を云ふ筋ではない。ころころ歓んでゐたら、大将がこつそり

 「長野のお土産です」

野沢菜漬けの小皿を出してくれた。嬉しくなつた。世の中のお漬物から、ひとつだけ撰べと云はれたら、躊躇なく野沢菜漬けを撰ぶ私にとつて、嬉しいサーヴィスであつた。それから予め頼んでゐた、串焼きの六本盛合せ(全部塩にしてもらつた)まで出てきて

 「これあ、お酒だな」

と思つた。ここは色々の銘柄を揃へてある。迷ひに迷つた挙げ句、石川は白山の[天狗舞]を撰んだ。呑むのは久し振りになる。少し待つと、ぬるめのお燗をつけたのが出てきた。お猪口に注ぐと、琥珀のいろが薄つすら、かかつてゐる。ゆるるとふくむと、のつたりした舌触りがまことに快い。

 野沢菜漬け。

 天狗舞

 玉子焼き。

 天狗舞

 大根おろし

 天狗舞

 串の塩焼き。

 [天狗舞]の註文は二合徳利。ゆゑに余裕が感じられた。詰り呑むのが遅くなり、醉ひのまはりも遅くなる。ゆつくりとした醉ひを感じながら、天狗が卓を舞ふのを眺めた。