閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1007 残光

 普段はあんまり鮪を食べない。

 お刺身なら鰤、焼くなら鮭、煮るなら鯖、揚げるなら鯵が嬉しく叉望ましい。ここで慌てて云ふと、積極的に食べはしないだけで、まづいとは思ひませんよはない。どうした弾みか、鮪を好む習慣を、身に附け損ねたのだな、きつと。

 かういふ時、頭に浮ぶのはお刺身である。正直なところ、鮪料理と聞いて浮ぶのは、お刺身か葱鮪が精々で、こちらの経験と想像力が共に貧困なのは認めてもいいが、鮪諸氏にも原因の一端はありさうな気がする。身も蓋もなく云ふなら、鮪はうまい食べ方の限られた魚で、我われのご先祖の舌に、馴染まなかつたのではあるまいか。

 大掴みに鮪が食卓へと上りだしたのは、江戸の後期乃至末期だつた。冷凍は勿論、冷藏も出來ない環境で、あの魚を扱へたのは、野田や銚子の醤油醸りが、産業として成り立つてゐたからであらう。即ち漬け。保存と調味を兼ねた手法と見れば、江戸人が胸を張れる、幾つかの大した發明に含められると思つていい。

 塩や味噌、酢に酒粕に、獸肉だの魚肉だの蔬菜だのを漬け込む技法自体は、遡れないくらゐの昔からあつた。その技術が、確實な長期の保存から、保存をしつつ味を調へる方向へと変化發展したのは、出來れば出來るだけ、旨いものを食べたいといふ、人間の(当り前な)慾求の照り返しで、我らが鮪の漬けは、その照り返しの中にあると考へられる。

 赤身のぶつ切りを、だし醤油にちよいと漬け、葱と刻んだ大葉を混ぜて、小皿に乗せたのを、大坂の家では"漬け"と呼んでゐる。普段は進んで食べない鮪だけれど、こいつは肴になるのは勿論、湯漬けで平らげても旨い。江戸下層民の風からは、ほど遠からうけれど、これも叉、漬けの残光と見立てたい。