閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1009 小天狗の夜

 白菜。

 胡瓜。

 たくわん。

 蕪。

 高菜。

 ピックルスにザワークラウト

 その他、辣韮や梅干しも含めていいか知ら、兎にも角にも諸々のお漬物がある中で、私が一等好きなのは、野沢菜漬けなのである。ごはんとお味噌汁、一切れの焼き鮭(鯖や鯵や鯵、或は秋刀魚もまた喜ばしい)に、野沢菜漬けがあればまづ上塩梅で、我ながら安上りに出來てゐる。とは云へ、安上りに済むのは、当り前に手に入るからにすぎず、それで旨ければ、文句を附ける筋はありますまい。

 話を小さくしませう。

 何年前だつたか、ニューナンブは頴娃君の案内で、松本を訪ねたことがある。泊つた安ビジネスホテル(例の如く)の、朝食バイキングに並べてあつた野沢菜漬けが、えらく旨かつたのを覚えてゐる。その場で一ぱい呑れなかつた無念も、覚えてゐる。私の記憶力は、こんな時にだけ、働くのだな。

 野沢菜漬けは大きく、葉の部分と茎の部分に分けられる。どちらもうまい。前者はごはんをくるむのに好適で、松本でもさうして食べた。後者を摘みに呑むのが、樂く叉嬉しいことは、強調の必要もないでせう。その後者の場合、呑むのはお酒が宜しい。麦酒も酎ハイも葡萄酒もあふけれど、お酒には一歩及ばない。ザワークラウトなら断然、麦酒を撰ぶのと理窟は同じである。

 前回に記した、玉子焼きを堪能した呑み屋に、叉足を運んで、ホッピー(黑)とポテトフライをやつつけてゐた夜、大将が長野土産の余りだか残りだか、小鉢の野沢菜漬けを出してくれた。有難いなあ。ホッピーを干してから、前回と同じく、[天狗舞]があるかどうか訊くと

 「もう一合もありませんから、安くお出ししますよ」

丁度コップ一杯分を冷やでもらつた。茎を摘み、葉を摘み、[天狗舞]を呑む。旨いのは既に知つてゐるが、既に知つてゐる旨い組合せを樂めるのだ、有難いなあ。念の為に云ふと、ここでの冷やは常温の意。冷藏庫に保存してゐたのは冷酒であつて、両者は区別の必要がある。さう云へば、[天狗舞]は北陸で、野沢菜漬けは信州、冬の寒い地域といふ点で共通してゐる。成る程、似合ふのも当然なのだな。さう気がついて陶然とする私の周りを、この夜は小天狗が舞つてゐた。