閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1036 今度はきつと

 不注意でカメラを壊した経験が、一度だけある。タキシに乗つた時、膝に置いてゐて、降りる際に滑り落した。間の惡いことに、落ちたのが水溜りだつた。慌てて拾い上げたけれど、残念な結果になつて仕舞つた。今でも覚えてゐる。それはニコンFEで、ニッコールの五十ミリを附けてあつた。

 FEに就て簡単に云ふと、絞り優先式の自動露光が使へる銀塩の一眼レフ。当時の典型的で地味な中級機であつた。中古カメラ屋の銀塩の棚は、長いこと見てゐないから、今はどうだか知らないが、一万円と少しも出せば、そこそこの程度の個体が手に入つた記憶がある。

 

 偶に慾しくなる。クロム仕上げのやつ。買つてどうすると訊かれたら、応じるのは六つかしい。私の今の視力で、ピントをきちんと合はすのは(事實上)無理だし、そこを何とか出來たとしても、フヰルムと現像とプリントに掛かる費用を鑑みれば、常用は不可能と云つていい。

 第一、面倒は横に置き、改めて入手するなら、FEよりF3を…F3に就ての事情は、別の機會を持つとして、今からFEを入手してどうする。部屋で麦酒を引つ掛け、空シャッターを切るのも、カメラの使ひ道ではあるが、褒められやしない。撮影に使ふひとの手元にある方が、カメラにとつて遥かに正しい在り方なのは、議論の必要もあるまい。

 

 それでもFEが時折り慾しくなるのは、上述のとほり、自分の不注意で駄目にしたからで、あの時は惡かつたなあといふ負ひ目がある。ちとややこしいのは、物慾が絡むからで、かういふ思ひ入れも、叉あるんです。

 手に入れる機會があつたら、附けるのは断然、五十ミリのニッコール。或は五十五ミリのマイクロニッコールにする。卅五ミリでもいいけれど、ライカに日和つた雰囲気になりさうだから、ここでは避ける。どちらにしてもフードは無い方が恰好いい。そこに(手元にある)(ニコン銘の)花やか…派手なストラップ。カメラの純正主義は、好みではないけれど、ねぢれた物慾なんだから、これくらゐは許してもらひませう。今度はきつと、落とさない。