閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1039 それはさうと

 それはさうとして私は、スマートフォンGoogleのカレンダー機能を使つてゐる。併せてColorNoteといふメモ用のアプリケイションも。簡単な予定の管理と、ちよつとした記録程度なら、これらで大体は事が足りる。

 中々に宜しい。

 便利が褒めすぎなら、不便が少いと云つてもいい。理想を云へば、予定とメモと撮影した画像を、一元的にで管理出來れば、もつといいのだが、出來なくて困つた記憶はない。だから出來なくてもいいのだと思ふ。

 併しGoogleカレンダーもColorNoteも、仕方がなく使つてゐる。常に持ち歩くスマートフォンで、予定の確認や訂正だの、ちよつとしたメモ取りだのが出來るのが便利なのは、認めるのに吝かではない。

 

 とは云へ、どちらもスマートフォンが使へなければ、如何ともし難い。スマートフォンが使へても、サーヴィスが終つたり、開發が中止されたら同じである。たとへば三年先五年先、これらが継續して利用出來る保證は無い。一過性の利用は兎も角、自分の時間を任せるには到らないと判断しても、賛意を示してもらへると思ふ。勿論そこに対して

 丸太の記録に長年の保存が必要か。

 余命に目を向ければ、大袈裟にすぎる。

 さういふ見方は有り得るし、大いに成り立ちもして、一方それでも…と云ひたくなる。詰るところ、理窟で解決出來やしない。それで筆墨硯紙を思ひ出す。熟語と呼べるかはさて措き、書く行為を象徴する綺麗な四文字。スマートフォン(とそのアプリケイション)が、さういふ象徴的な文字…言葉を得れば、話は異なつてくるのだらうが、何十年か何百年か経たないと、その日が來るとは思へない。