閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1038 表と裏

 令和六年の手帖は、高橋書店のフェルテである。月曜日始まりの両面一週間。例年通り、呑み喰ひの記録と、游びの予定を記してゐる。また別枠で一ヶ月単位の予定表が用意されてゐて、そつちには仕事に関聯することを書いてゐる。

 「個人と會社は分けなくちやあね」

といふ理窟。その切り分けは一応、間違ひとも不合理とも云ひにくい。我が手帖使ひの讀者諸嬢諸氏も、さういふ分け方をしてゐるのではなからうか。

 とは云へ。仕事場で頭を抱へるのが私なら、冩眞を撮るのも、美事な絵画に感嘆するのも、よく出來た肴に舌鼓を打つのも、宿醉ひに後悔するのも私であつて、それらはすつぱり切り分けられるものではない。当り前と笑はれるだらうが、我われは無自覚に、そのグレイゾーン乃至グラデイションに目を瞑る習慣を、身につけてゐさうに思はれる。

 さう考へると、手帖を私用と仕事で書き分けることが、どの程度に有用なのか、さう疑念が浮ぶのは、自然な流れと感じられる。気分の話をすると、仕事は裏…本來の用件や予定ではない、といふ思ひこみが私にはある。仕方がないから記しても、出來るだけ目に触れさせたくない。ゆゑに別枠で扱ふ。有用無用の疑念への答にはなつてゐないね、これは。

 「本來でも、さうでなくても、自分のことぢやあないか」

さう見るのは勿論、正しい。ごく単純に、游びの予定を立てるにしても、仕事とかち合つては如何ともし難い。表裏は兎も角、自分の時間であることに変りはない、と受け容れるのは当然ではなく、(止む事を得ぬ)事實であらう。手帖を、その"表裏一体の時間"の象徴と見立てるのは、無理があるかどうか。機會に恵まれれば、高橋書店に訊ねてみませうか。