閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

022 山梨に行くこと~寫眞

 冩眞はわたしと頴娃君が属するニューナンブの主な娯樂品目である。これまで頴娃君とは何べんかまたは何べんも一泊二泊の旅行に出たことがあつてその時も冩眞を撮つた。今度の山梨行きでも撮ることになる。頴娃君は熱心な冩眞愛好家でフヰルムの利用者でプリントの重視者でもある。なのでこれまではフヰルム式のカメラを用意し、当然フヰルムも用意し、半日で三十六枚撮り一本を撮る。撮りきつたら一時間プリントに出してその日の内に紙に焼いて仕舞ふ。何になるかといふとその晩の肴で互ひのプリントを見ながら呑む。プリントは自分で見る前に交換するのがみそで、相手の冩眞から三枚とか五枚とか撰んで面子遊びのやうに見せ合ひつこをする。莫迦みたいな感じがされるが、やつてみると面白い。呑んでゐる所為だと思ふ。素面でやつたらどうなるだらう。

 併しフヰルムをその場でプリントするのは絶滅した遊びで一部のお店では未だ受けてくれるけれども、どんどん減つてゐて当り前である。今さらフヰルム式のカメラを使ふのは余程の時間とお小遣ひがなくてはならない。旅行先にさういふお店があるとして、いちいちそこまで行つて半時間一時間待つのも面倒である。それに冩眞はわたしの中で遊びの地位が下つた。厭になつたのでなく文章を書く方が気分に適ふ。もうひとつ加へるとわたしが主に使ふデジタル・カメラで撮るのは大半がモノクロームといふ事情がある。さう云へば長いことモノクロームのフヰルムでは撮つてゐない。フヰルムは今でも多少は賣られてゐる。そんな風に思ふとモノクロームで撮りたくなつた。当日に焼いてもらふのは不可能だけれど、それはまあいいとする。さう話すと頴娃君は

「すりやあ残念な話ぢやあないか貴君」

と云つた。云ひたい気持ちは解るんだが、こちらはモノクロームを使ひたい。それで済まないと思ひながらその日のプリントが無理なら仕方がないと正直に伝へたら、そんならやむ事を得ないかといふ顔つきになつた。

 それで決つたから今度は何のカメラを持ち出すか考へなくてはならない。さうする必要があるのかと訊かれたら多少はあつて、手元には何台かのフヰルム式カメラがある。一ばん便利なのがキヤノンのEOS100でこれは自動焦点で自動露光も使へる。ただ一本きりの持つてゐるレンズの調子が宜しくない。安レンズだから仕方がないのだが旅行に持ち出すのは不安だし、わざわざ新しい一本を奢る気にもなれない。キヤノンの次に便利なのはリコーのXR-7mkIIになつて、こちらは自動露光がある。レンズも三本あるからその点は心配がない。但し本体のミラーが時々上がりきりになる持病があるのが気に掛かる。当日に焼くのを考へないでいいのだから、キヤノン同様誤魔化しながら使ふ手はあるが、カメラに気を使ふのは莫迦らしくも思ふ。リコーといへばR1sがあつたのを思ひ出した序でにオリンパスのμといふコンパクト・カメラも転がつてゐた。尤もかういふカメラは調子が惡くても気づけない欠点があるもので、一ぺんそれで失敗つた経験がある。それなら何だか変な具合だと気づける方がいい。かう考へると手元にある中ではこれもリコーのXR-8が最良の撰択だらうと思へる。自動では何にも出來ないが何かしら困ることがあつても誤魔化しがきくだらうと思へるところが宜しい。これでいかう。

 かう書きながら思ふのはライカにズミルクスかズミクロンの広角レンズしか使はない頴娃君の頑固さで、褒めていいのかどうか判らないが、兎に角撮るのが速い。こちらの知らないうちにシャッターを切つてゐてデジタル・カメラ(これもライカである)なら一日に平気で二百枚くらゐ撮る。撮つてゐる。撮らなければ冩眞にならないからねといふのが頴娃君の云ひ分。百枚二百枚撮つてこれはと思へる冩眞が何枚かあればいいと考へてゐるらしい。流石にフヰルムでさういふ数に頼ることはしてゐないみたいだが、それでも先づ撮るといふ姿勢ははつきりしてゐる。さういふ撮り方を隣で見ると何だか煽られる。撮らなくちやあならないとまではゆかないが、何となく自分の撮る速度も増してくる。そんな風に撮つた後で自分の冩眞を見ると大体は酷い。存外に惡くはないかと思ふこともなくはないがそれは稀なことだし、その稀は偶然の産物に過ぎないから惡くないとしても詰らない。どこか他人事のやうな気分が残る。その残り方はをかしいと云はれてもさう感じるのだから仕方がない。

 ぢやあ何故さう感じるのかと云ふと文章を書く習慣があるからではないかと思ふ。下手な鐵砲も数を撃てばと俗に云ふけれど、数と質が比例しないのが文章で、下手糞が色々書く内に素晴らしい一文をふと仕上げる機会は絶対に訪れない。素晴らしい一文を書きたければその為の訓練が不可欠で、偶然が入り込む余地がないとまでは云ひにくいとしても冩眞のやうな幸運に恵まれるかどうかといへば殆ど零に等しからうと思はれる。サローヤンの『パパ・ユーア・クレイジー』に小説家の父が"自分の名前は綴れる"と云ふ息子に、"ぢやあお前は小説を書く準備が出來てるつてわけだ"と伝へる場面があつてまことにユーモラスなのだが、残念ながら名前を綴れるだけでは準備万端とはゆかない。念の為に云ふと冩眞を貶める積りは丸でない。冩眞の場合は撮らうとする側の意図が平然と踏みにじられる可能性が常にあつて、またそれが却つて好もしい効果を加へることがある。さういふ偶然を含めて面白がるのが冩眞の本筋だとすれば、"絶対非演出のスナップ"だつたかの掛け聲はそれを一応は端的に示してゐる。頴娃君はこちらに属してゐると思はれて、これなら十枚より百枚、百枚より二百枚撮る方が当る率が高くなる。

 さういふ撮り方がこちらに出來るのかと云へば併しそれは別問題。頴娃君の撮り方を詳しく観察したことがないから推測になるのだが大半はキャンディッド・フォトグラフだから、きちんと構へて焦点合せと露光を調へてなんてはしてゐないと思ふ。惡くちを叩けばまつたくいい加減な感じがされて、とは云ふもののそれで時に見事な一枚をものにするのを見ると、その撮り方がカメラの機能だの何だのと無関係なところに到つてゐるのかとも思へる。仲間褒めは鼻の奥が痒くなるものだけれど、わたしには眞似出來ないのでここは大したものだと云つておかう。負け惜しみ含みでつけ加へると眞似出來ないのと羨望は異なつてゐる。それにXR-8は安カメラで烈しく使ふと壊れさうな予感もある。モノクローム・フヰルムを詰め、標準レンズで惜しみ惜しみ撮らう。さういふみみつちさがどうやらわたしには似合つてゐるらしい。