閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

013 白くてふはふはして曖昧な

 冬になると湯豆腐が恋しくなる。

 尤も夏は夏で冷奴が慾しくなる。

 そんなら春や秋は恋しくも慾しくもならないのかと云へば、下物でちよいとつまみたくなるもので、積り豆腐は年中うまい。生眞面目な豆腐愛好家や厳密な食通はもしかすると、今の日本でうまい豆腐を食べるのは至難なのだよと嘆くかも知れないが、こちらの舌は安直に出來てゐるから、さういふことは口にしない。とは云へ豆腐が旨いのは、料り方の巧さではないかと思ふひとも少なくない気がされる。

 豆腐それ自体は白くて、ふはふはして、曖昧な口当りの食べもの。醤油や生姜、削り節、熱いあんがあるから、美味しいんぢやあなからうか。

 何となくそんな印象がある。だがその印象が正しいとすると、恋しくなり慾しくもなるのは醤油や生姜、削り節、熱いあんといふことになつて、それはをかしい。醤油以下がうまいのは認めるとして、それが豆腐に到るのかとなると、さうではない筈で、だとすれば豆腐を端に白くてふはふはして、曖昧な口当りの食べものととらへるのが間違ひといふことになる。實際、そこそこのお店で食べる豆腐は、まづそれ自体がうまい。どう旨いと云へるのかと訊かれても、そこを文字にするのは六づかしく、我われが漠然と考へる味の一面があると思へますと応じざるを得ない。甘辛酸苦が味覚の基本なのは改めるまでもないとして、さて我らの豆腐は甘辛酸苦のどこに属するのか。もしかすると近年の新参者である旨味が手を挙げるのだらうか。…まあさういふ厳密な疑問はさて置くとして、まづい食べものが少なくとも千年以上、命脈を保つとは考へにくい。数々の食べものが派生することも矢張り考へにくい。そもそもまづかつたから、工夫せざるを得なかつたんぢやあないかと疑問が出る可能性はあるが、豆腐作りは中々に面倒な工程がある。まづい食べものに手間暇を掛けるほど、我われのご先祖が寛容だつたとは思へないよ。

 ところで豆腐の仮に起原と呼ぶが、どうもそれがはつきりしない。伝説では淮南王の劉安に發明の栄誉が与へられてゐる。紀元前二世紀頃の人物で漢ノ高祖、劉邦の孫。但しその栄誉を授けたのは十六世紀末に著された『本草綱目』だから、甚だ怪しい。日本豆腐協会といふ権威がありさうな団体も疑義を呈してゐて、そこには"劉安の時代の中國には、まだ豆腐の原料となる大豆が存在しなかったからです。中國に大豆が入ってくるのは、この時代から半世紀もたってからでした"と書いてある。この手の解説の常で、大豆の原産地や伝播に関してまつたく触れられてゐないのは残念だけれど、文献に豆腐の文字が登場するのは十世紀半ば頃らしい。大豆自体は東アジアが原産で、我われのご先祖には古くから馴染みの植物だから、淮南に伝播してゐなかつたかどうかは疑はしくはあるのだが、それを擂り潰し、煮て、固める(ね、ややこしいでせう)製造法が二千年以上前に成り立つてゐたかといふと、それもまた同じくらゐ疑はしくて、その点で日本豆腐協会の推定はある程度正しいと思はれる。

 有り体なところ、かういふ食べものがたれか個人の偉大な發明に帰すると考へるのが寧ろ無理であつて、成功だけでなく失敗も含めた様々の工夫を経て、いつの間にか出來上つたのだらう。

f:id:blackzampa:20171106084203j:plain

 その豆腐を分類するのには色々な基準があるとして、ここでは大きく"軟らかい"のと"堅い"のがあるとしたい。勿論その中間だつてあるのだが、さういふグラデイションを考慮すると分類的な考察は成り立たない。大雑把に前者は概ね近所のマーケットや豆腐屋で賣られてゐるもの、後者は南國風の炒めもので口にするやうなものと想像すればいいと思ふ。このちがひは凝固のさせ方と水分の残し方で生じる。優劣があるわけでないのは当然ので、"軟らかい"のは豆腐自体を食べる場合(たとへば湯豆腐)、"堅い"のは豆腐を材料のひとつとして扱ふ場合(たとへば諸々のちやんぷるー)が多いんではなからうか。湯豆腐とちやんぷるーを同列で比較するのは、競泳とシンクロナイズド・スイミングを同じプールで実施するのだからと比較するやうなもので意味がない。但し競泳とシンクロナイズド・スイミングが美しい動作で共通するとの同じ意味で、"軟らかい"豆腐と"堅い"豆腐は旨い点で共通してゐる。

 冷奴に湯豆腐。

 田樂。

 麻婆豆腐。

 ちやんぷるー。

 寄せ鍋や水炊き。

 厚揚げ。

 味噌汁の種。

 ハンバーグなんていふのもある。

 そのままで温めて熱くして冷して。

 潰して濾して和へて。

 蒸して焼いて揚げて炒めて燻して。

 醤油でぽん酢で辣油で。

 生姜で削り節で味噌で。

 思ひつく調理法と調味料が悉く似合ひさうで、お酒…ここでは日本酒の意…は勿論、焼酎や泡盛や葡萄酒にも適ふ。紹興酒もいい。ヰスキィはどうだらう、試したことはないが、果物を使つたあまいソースで仕立てればいけさうな気がする。かう考へると一ばん似合ひにくいのは麦酒ではないかとも思へてきて、それでも暑い時季だつたら十分うまい。これは大したもので、相手と舞台を撰ばない名脇役のやうだと云ひたくなつてくる。とは云へ我が國では矢張り、お酒が最良の共演者だらうとは容易な想像でせう。お燗酒を啜り、味噌をあしらつた豆腐をつまんだわたしは、心中快哉を叫びつつ、淮南の王はきつと、かういふつまみを知らなかつたのだらうと思つた。