閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

398 遡り鮪

 最近はお刺身をすつかり食べなくなつた。厭になつたとか飽きたとか、さういふのではなく、食慾をそそられなくなつたのが理由。どうぞと出してもらへたら食べるし、美味いと思ふけれども、それより鯖の味噌煮や鯵の開きや鰯の丸干しの方が喜ばしい。

 「ははあ、さういふ年齢なのだね」

と云はれたら否定はしないし、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏がお刺身に舌鼓を打つのを邪魔する積りもないので、安心して頂きたい。

 ある酒席でお刺身の盛合せが登場したとして、人気の最上位を占めるのは鮪(或はサモン)ではなからうか。統計を取るとかをしたわけではなくても、まつたくの的外れではないでせう。以前からはまちや鰤を好むわたしには些か不思議に思へるけれど、そこはもう嗜好の部分だから何とも云へない。

 不思議序でに云へば脂み…とろの人気は本当に不思議で、まづいとまでは云はないにしても、あんなのはひと切れあれば十分ではないか知ら。脂身信仰者は牛肉方面でも珍しくないが、ああいふのを貪り喰へるのは、胃袋が随分と若いのだらう。羨ましいかと訊かれたら曖昧に誤魔化すとしても。

 生で食べるなら赤身のぶつ切りや漬けがいい。山葵と醤油で。これなら(自分からは註文しなくても)二切れか三切れくらゐは食べると思ふ。素つ気無い態度だねえと云はれさうだが、鮪への熱意は元からその程度だもの、仕方がない。それに少年だつたわたしにとつて魚といへば煮魚か焼き魚だつたのを思ひ出すと、半世紀近くが過ぎた今、嗜好が戻つてきたと云へなくもないでせう。

 全國の鮪愛好者向けに念を押すと、鮪嫌ひなのではありませんよ、わたしは。消極的なだけなのです。それもお刺身に消極的なのであつて、さうでない鮪は積極的に食べてみたいとも思つてゐる。もう今は無い[たこ梅]といふ店では"まぐろの串かつ"といふのを出してゐた。文字通りぶつ切りの串かつ仕立て。上品なのだか品下れてゐるのか判らないが、ウスター・ソースと辛子で喰ふのが兎に角旨かつた。オリーヴ油を使つたサラドもいいし、もつと単純に焙つたのを檸檬かぽん酢でやつつけるのもいい。どうも高級とは云ひにくいけれど、元來鮪は下魚である。気にしなくても宜しからう。

 下魚扱ひは併し鮪の責任ではない。足が早い…要は腐り易いから、保存の技術が未熟だつた頃は素早く食べる外になかつた事情がある。決してまづくて避けられたのではなく、関西の一部にはシビといふ言葉が残つてゐるのはその間接的な證拠にならう。これは鮪の古語で、我われの遠いご先祖(少くとも海の近くの)が食べてゐた事を暗示してゐる。鮪諸君の名誉の為に云ひ添へておかねばならない。多くのひと(主に下層民)の口に入るに到つたのは、漬けの技術が確立してから…これは醤油の普及が大きい…だが、二世紀前の江戸では(醤油をはじいて、漬けにしにくかつたからか)とろの地位は甚だ低かつたらしい。町奴が

 「脂つ臭くて、喰へたものぢやあねえ」

と勇んだかどうかは判らない。判らないけれどかれらが脂みを喜ばなかつたのは、猫跨ぎなんて蔑称があつたくらゐだから、ほぼ確實だらう。併し赤身は焼くか漬けでまあ喰へる。棄てるのはどうも勿体無い気がする。たとへば葱鮪が出來たのはきつとそんな経緯で、乱暴に云ふならあれは葱を美味く喰ふ為の工夫…もつと無遠慮に云へばただの味附け、調味料であつた。いやまつたく下魚だつたのだなあ。

 

 ただここで改めて云へば、漬けの技法や煮て喰ふ手法を使つて…詰り手間を掛けて食卓に乗せる程度に、鮪乃至シビは馴染みがあつた事を示してもゐる。生食といふ"特殊な"食べ方は近代の冷凍技術が生んだ新参者(!)に過ぎず、さう考へを進めると、わたしがお刺身から距離を置きつつ、調理された鮪に興味を感じるに到つたらしいのは、個人史とは別の嗜好の遡りではないかと思へなくもない。