閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

935 夏が來た

 七月十五日、土曜日。

 曇つてゐたけれど、たいへんに蒸し暑く、詰り外出には不向きな空模様だつたけれど、午后に家を出た。この日と翌十六日は、旧國鐵中野驛の北口から、早稲田通りにかけての一帯で、チャンプルーフェスタが開かれる。

 さういふ話をニューナンブでしてゐたら、クロスロードG君が、家族に迷惑の掛からない時間で足を運びます、と云つてきた。最後に顔をあはしたのは、中國武漢發と思はれる感染症の大流行前以前だから、数年振りといふことになる。

 更に頴娃君も、新宿に用件があるから、蕎麦をやつつけた後(かれが蕎麦をやつつけると云つた時、お酒を呑むのと等しい)、中野まで足を延ばしたいと云つてきて、詰りさういふ運びとなつた。

 

 中野驛で降りると、湿気が軟かな塊のやうで、クロスロードG君や頴娃君と落ち合ふのを考へる前に、麦酒を呑まないと収まらない気分になつた。それでサンプラザの前に用意された催し會場に行つて、オリオン・ビール(プラスチックのカップ入り、五百円)と苦瓜串(四百円)を買つた。御行儀が惡いと思ひながら、地べたに坐りこんで、オリオンを呑んだ。實にうまい。苦瓜串に就ての論評は控へる。

 湿つぽくて暑い日のオリオンは危ふい。

 味はひがどうかう感じる前に、美味い何ものかが胃の腑まで届いてゐる。

 気がつけばオリオンのカップは空になつてゐる。不思議でならない。首を傾げつつ、区役所前の催し會場に移つた。麒麟麦酒のスプリング・ヴァレイを呑ませる屋台…キッチンカーがあつたけれども、チャンプルーなフェスタで、オリオンを呑まずしてどうするのか。なので麒麟の隣で賣つてゐたオリオン・ビール(紙コップ入りの六百円)を贖つた。プラスチック・カップより旨く思へたのは、気分のちがひだらう。

 二はい目のオリオンが空になりさうな辺りで、一澤帆布製のバッグを下げた、クロスロードG君と合流した。まだ呑んでゐないといふから驚いて

 「先づは一ぱい」

サンプラザ前に戻つてオリオンを買つた。紙コップ入り六百円のやつ。あはせてアグー豚を使つたと謳ふソーセイジ(四百円)も買つた。クロスロードG君もオリオン。数年振りに乾盃をした。数年前と変らない乾盃であつた。

 呑みながら眞面目な話をしないのが、ニューナンブの伝統である。今回を例外とする道理はない。莫迦話に花を咲かせてゐたら、仮面を被つた謎の小父さんが、カチャーシー風の手つきといふのか、踊つてゐるのが目に入つた。出演のバンドやエイサー聯のたれかかと思つたが、暫くしてただの数寄者らしいと判つた。さうしたら、セーラームーン風のコスプレといふのか、纏つた二人組の小父さんが乱入したから、大笑ひした。これもチャンプルーと呼んでいいものか。

 

 頴娃君がやつてきた。新宿での無駄遣ひをした後、蕎麦と肴で、二合ほどやつつけたらしい。頑丈な男である。三人で改めて乾盃した。クロスロードG君と頴娃君は泡盛。私は泡盛を使ひ、ゴーヤーとたんかんで風味をつけてあるカクテルらしき呑みもの。壜入りなら七百円だが、プラスチックのカップに注いでもらつて六百円。この場にS鰰氏がゐたら、ニューナンブの揃ひ踏みだつたのに。

 三人になつても莫迦話に変りはない。最近になつて蒸溜酒を覚えた頴娃君の悩みは

 「最初の一ぱいを、どう頼めばいいか判らない」

ことらしい。お酒…日本酒なら重ねた経験に基づいて、口当りや香り、喉越しを伝へられるのに、蒸溜酒だとさうはゆかないといふ。成る程。クロスロードG君と共に頭を捻り、捻つた挙げ句、先づはお奨めを教はつて

 「そこから、もちつと濃い感じがいいとか、高い香りが好もしいとか云ふのが、いいんぢやあないですかねえ」

ありきたりの結論に達した。まさか泡盛の甕に飛び込むのがいいとは云へないもの。

 

 ふと目を逸らしたところに、幟が立つてゐた。"冷し沖縄そば"と書いてある。沖縄そばは好物だけれど、"冷し"は何を意味するのか。廿年近く前、旧コザや那覇で何杯も食べた記憶を辿つて…欠片も見当らない。出店の構へから察するに、學生の試作品ではなからうかと思はれる。よく見ると短冊のやうにぶら下げた品書きにも、"冷し沖縄そば"とあり、その上に"準備中"の紙切れが貼つてあつた。

 残念だなあ…棒讀みな感想を腹の底で呟いて、莫迦話を續け、再び視線を向けると、"準備中"の貼り紙が剥がされてゐたから困つた。普段なら絶対に食べないのだが、けふはお祭りである。オリオンだつて三杯も呑んでゐる。目をとぢると負けた気がする。何と勝負してゐるのだらう。五百円。

 うでた麺に刻んだ胡瓜と紅生姜、炒めたポークの欠片と麩がひと切れ。そこに"冷し"の為の氷をころころ入れたのを

 「よく混ぜて、食べてください」

と渡してくれた。論評はこの際避けるとして、予めソップを冷す工夫くらゐはあつてもいいし、そこをどうにかしたら、冗談が立派に成り立つと思つた。

 陽が落ちさうになつてきた。ニューナンブの本來はここから始るのだが、互ひに諸々の事情がある。その気になつて、時間をあはせたら、S鰰氏も含め、集合も無理ではないと判つたのに満足して、この日は散會とした。我われは節度を心得てゐるのだ。最後に一ぱい呑まうかと思つたのを控へて帰宅した。シャワーを浴びたら、汗が溶け落ちるやうな感覚を覚えて、夏がやつてきたのだと思つた。