閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

822 摘んで咬んで

 肉味噌と聞いたら無闇に昂奮する。どんな経緯で成り立つたかは知らない。勝手な推測を云ふと、ミート・ソースからの応用ではないかと思ふ。根拠は無いから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、信じてはいけません。

 過日、某処の立呑屋に顔を出した夕刻の話。そこはちまちました肴がうまい。詰りどこかでちやんと食べ、また呑んだ後に行くのが好もしいお店なのだが、そこでお姐さんに

 「お豆腐に肉味噌を掛けたのがありますよ」

と云はれた。躊躇せず、そいつをお願ひしますと註文した。だつてまづい道理がないんだもの。それで摘んだら期待乃至昂奮にたがはず旨かつた。

 併し肉味噌をお豆腐に掛けるだけでは勿体無い。お摘みに玉子焼きがあつた。外のお客も少い。だから我が儘は承知で

 「玉子焼きにさつきの肉味噌を掛けてもらふわけには、いかんですか」

さう頼んだら、あつさり(それくらゐ)いいですよと返つてきた。さういふ我が儘が通るくらゐには馴染めたのかなと嬉しくなつた。念の為に云ふと、このお店でおれがいいお客なのかどうかは兎も角、我が儘を云つても(多少は)許してもらへるだらうと思へる程度のお金は遣つてゐる。我が若い讀者諸嬢諸氏には、初見のお店でさういふ眞似をしてはいけないとささやかな忠告をしておきたい。

 古老の繰り言は詰らないね、さて措かう。

 摘む。

 咬む。

 呑む。

 お豆腐とは舌触り歯触り、それから勿論味はひがちがふ…当り前だけれど、当り前なら試さなくてかまはないのかと訊かれたら、それも矢張りちがふと応じたい。お酒でも葡萄酒でも試飲といふのがある。気がつく藏だつたら、複数の銘柄を呑みくらべさしてくれて、あれは實に樂く嬉しい。その場で味はひ較べると同じ藏のお酒(乃至葡萄酒或は麦酒でも)なのに異なる風に感じられ、また同時に藏の持つ癖といふか方向性といふかに共通する部分も感じられて、そんなのはいつどこで呑んでも変るまいと思ふならそれは間違ひである。同じ銘柄のお酒を、いつどこでたれと呑むのか、その日の風の吹き方や太陽の照り加減、肴の出來、腹の具合で、千変万化するのは、我が呑み仲間である讀者諸嬢諸氏には何度も経験があるでせう。肴が異なる道理はない。

 また呑んで、摘んで、咬む。

 お酒にあはしてゐたが、葡萄酒にも似合ふだらうなあ。お味噌は云はば万能のお摘みだから、お猪口でもグラスでも相手を撰ばない。などと書いたら、ははあさういふ理窟を捏ねて丸太は肉味噌で昂奮するのかと膝を叩くひとが出るかも知れず、いやまあ理窟も捏ねれば調味料にはなるのはその通りだけれど、そもそも肉味噌じたいが美味くないと話が始まらない。更にここまで書いて、肝腎の肉味噌だけを舐めなかつたのを思ひ出した。機會は次を待たねばならないとして、あの夜と同じやうに味はへるかどうか。