閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

828 マンネリズム

 呑みに行くと肴を撮る。

 さういふ癖が身についてゐる。

 まことにお行儀が惡い。

 その程度の自覚はある。

 自覚はあるけれど、癖だから仕方がないとも思つてゐる。

 かういふのを居直りと呼ぶ。

 屁理窟を捏ねれば、自分の頭に入らない分を、撮ることで補つてゐるのだと云へなくもない。旧い友人に云はせれば

 「忘れる、ちふのは、そのくらゐの肴やつたからとちがふンかなあ」

らしい。成る程、筋は通つてゐる。一方で呑み續けるうちに記憶からすこんと抜け落ちる肴もある。詰り脳味噌が草臥れてゐるからで、草臥れる程度まで老が進んでゐると見立てるのは正しい。我がわかい讀者諸嬢諸氏には想像が六づかしからう、えへん。

 そこで撮る。後で見ると手振れを起してゐたり、露光や色味がをかしなこともある。さういふのは普通、失敗冩眞と呼ばれるのだが、気にはならない。失敗した冩眞を見ると、その時の自分がばくぜんと…その時は醉つてゐたのだから、どのみち鮮明な記憶が残る筈はない…思ひ出される。

 

 撮るには広角のレンズがいい。肴だけでなく、酒の壜やコップまで冩しておく。この手帖で見せびらかす時は、トリミングをする。なーに、近年のカメラは勿論、スマートフォンのカメラ機能だつて、たいへん優秀だからね、少々切り取つたつて、どうといふことはない。序でに云ふと、カメラやレンズの差異がはつきり出てくるのは、シビアなプリントをした四ツ切以上のサイズからだと思ふ。

 余談は措いて、過去の記憶…訂正、記憶の補完を切り取つたのを見ると、どれもこれも似た感じなので驚いた。馴染んだお店で撮ることが多く、それで大体は同じ位置で撮り、好みの切り取り方が決つたといふことなのだらう。オーソドックスが出來たと云へば恰好はいいが、マンネリズムと見るのだつて間違ひではなく、實態はまあ、後者だと認めたい。おれは正直者なのだ。

 とは云ふものの、マンネリズムは惡いのかなあと思ひたくなるのも本音である。この手帖のために撮るなら、話は多少なり異なるかも知れない。併し本筋は記憶の補完で手帖はおまけなのだから、マンネリズムだらうが何だらうが、我がすすどい眼力の讀者諸嬢諸氏には、諦めてもらふか、ご容赦を願ふのが妥当な態度ではあらう。かういふのもまた、居直りと呼べるけれども。