閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

907 乾盃の前に

 お腹を空かせて呑むのは感心しない。ごくわかい頃、空腹をかまはず呑みすぎて、酷い目にあつて以來、お酒の横には食べものを欠かさないのが習慣になつた。過日、ふらと入つた(一応は馴染みと扱はれてゐるらしい)立呑屋でおにぎりを見つけ、嬉しくなつたのには、さういふ事情がある。

 

 焼酎の無糖紅茶割り。

 おまけの枝豆の塩加減がまた、呑み助好みで嬉しい。

 解つてゐるなあ。

 

 折角のおにぎりなのだから、手掴みで食べたい。と思ひはしたが、私は場所を心得る男だから、そこは遠慮してお箸をつける。指先に伝はる感じで、しつかり握つてあつても、堅くなつてゐないのがわかる。

 鶏のお出汁を使つてゐるのだらう、いい匂ひがする。好みを云ふなら、少しくらゐ、焦げが慾しかつたけれど、それは我が儘といふものか。噛みしめたら、生姜の香りが立つた。五蘊を閉ざした山門では、縁のない味だらうと思ふ。

 我が厳密なる讀者諸嬢諸氏の中には、おにぎりで呑むのは感心しないと呟く向きもあらうが、塩梅宜しきを得た混ぜごはんなら、うまくすると前菜を兼ねもする。尤もその"塩梅宜しき"を得るのが六つかしい。

 念の為に云ふ。おにぎりを相手に呑む場合、主役はあくまでもおにぎりであるから、呑むのは無愛想…あつさり淡泊が好もしい。お酒でも麦酒でも、腰を据ゑるのはその後にすればよく、さう考へれば、呑み屋におにぎりは欠かせない。