閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

971 為の記録

 この何ヵ月か、眞面目に撮つてゐない。私が云ふのは、スマートフォン…ここでは常用のAQUOS sense3を指す…のカメラ機能を使つた、呑み喰ひの記録のことである。特段の切つ掛けがあつたわけではないし、手帖への書きつけは續けてゐるから、きつと

 (別にまあ、かまンかな)

とでも思つたのだらう。念を押すと、撮るのを止めたのではなく、頻度が極端にひくくなつたんである。画像は一ヶ月くらゐ前に撮つた塩キヤベツ…後ろにぼんやり見えるのは、谷中生姜…なのだが、それから今日に到るまで、廿枚も撮つてゐない。うーむ、さぼつてゐるなあ。

 尤も、さぼつたところで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の生活に、支障は生じない。私じしん、こまつたなあと思はないんだもの。この手帖を書く時、画像を種にしにくい点は、挙げてもいいけれど、全体としては矢張り、特段の不便を感じないといつていい…などと云ひ出したのは

 (何の為に、撮つてたンか)

我ながら似合はない疑念が浮んだ所為である。呑み喰ひを記録する行為自体、明確に池波正太郎の眞似で、では撮らうとした切つ掛けは、何だつたか。盛りつけだの器だのが美しかつた、でなかつたのは間違ひない。

 手帖に書きつける時に、忘れてはゐてはこまる。とか何とか考へた可能性はある。呑み喰ひといつても、比重が前者にかかつてゐるのは当然であるし、その結果、記憶を飛ばした経験も幾度だつてある。即ちその予防手段として、日常持ち歩き、酒席食卓で取り出しても、不自然になりにくい携帯電話…AQUOSを使ふに到つた、のではなからうか。

 (ほならね、GRⅢがありもするし、使はンと、勿体無い)

それはさうなんだが、御行儀の惡い男である私だもの、麦酒やお酒を溢さないとは云へず、どこかにぶつけ、或は落つことす恐れだつて、また目を瞑れない。酒席食卓の端つこに、我がGRⅢを鎮座させるのは、肴にするのでもなければ、控へるのが安全だらうと思はれる。話が逸れた。

 何の話だつたか知ら…さう、呑み喰ひの記録の冩眞、訂正画像に限ると、AQUOSのカメラと画像の管理機能は、GRⅢを凌ぐ。なにせ

 「手帖に記録する為の記憶の補助をする記録の為の手段」

だから、この程度でかまはないのだと云つてもいい。時系列を辿りつつ、手早くざつと見直せる。この一覧性のよさが、私にとつては便利なのだな。また記録の為の記録だもの、肩肘にちからを込めないで済むのもよい。その結果が毎日、似たり寄つたりの呑み喰ひ…さう、思ふにさぼりだした原因はこの辺りだつたかも知れない…だつたとして

 (おンなしやないか)

 (飽きとらンかつたンか)

と、後日後年、苦笑ひが出來れば、その役割は果せることになる。であれば、眞面目不眞面目関りなく、改めて記録を重ねてゆかうかと思ふ。この場合、数はちからである。