閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1047 曖昧映画館~昭和残侠伝

 記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。

 

 東映やくざ映画には

 堅気を大切にする侠客が、

 惡辣因業な輩の卑劣な嫌がらせに我慢を重ね、

 最後には堪忍袋の緒が切れる。

 といふ定型がある。積つた鬱憤を晴らす一点で、勧善懲惡の水戸黄門や遠山の金さんと同じ骨組み。この映画も例外ではないのは勿論である。

 

 舞台は終戰間もない淺草。

 立ち並ぶ露店商を守らうとする関東神津組と、その露店商から錢を巻き上げようとする新誠會が対立する中、池部良が神津組に草鞋を脱ぐ。そして復員兵として神津組に戻つた高倉健が、非業の死を遂げた四代目の後を継ぐ。

 新誠會の聯中は土地に屋根附きのマーケットを建て、荒稼ぎを目論んでゐる。建てるのは兎も角、錢に汚い輩に仕切らせるわけにはゆかない。五代目となつた高倉健は、それでも最後の最後まで喧嘩はすまじきこと、といふ先代の遺言に従はうとするけれど…。

 

 筋立ては陳腐。不可解な謎も鮮やかなどんでん返しも何も無い。併しそんなことはどうでもいい。様式に沿つた所作の恰好よさが、寧ろ目に染みる。たとへば序盤、神津組を訪れた池部良が、若頭に挨拶を通す場面のやり取り。リアリティなんざ、はふり捨ててかまはないと強く思へてくる。

 公開当時、映画館を出た男たちは、一様に肩をそびやかしたといふ。新誠會へ殴り込みを掛けた高倉健池部良にきつと、理不尽を押しつける取引先へと怒鳴り込む自分を投影してゐたに相違なく…可憐と笑つてはいけない。この映画を観た後、私の肩は確かに錨の形になつてゐた。