閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

091 一部始終

 週末の某日、呑みに出掛ける機会に恵まれた。西武新宿線の都立家政驛近くにあるKといふ居酒屋で、年に二、三べん足を運ぶ。これと云つた銘酒があるわけではないが、つまみが旨くて、女将さんの客あしらひも宜しい。詰り佳い居酒屋。

 Kに行く時は必ず、呑み友達の女性と一緒なのだが、待合せはごくいい加減で、午后六時から七時の間くらゐといふことになつてゐる。先に着いたら、先に始めていい。この時は午后六時半には到着出來さうなので、その旨をメールで知らせ、西武新宿線の各驛停車上石神井行きに乗つた。

 車内は混雑はしてをらず、空いてゐるわけでもなかつた。右斜め前の席には、幼児を連れた白人が坐つて、しきりに我が子をあやしてゐる。いい気分になつて、吉田健一の『金沢』(講談社文芸文庫)に少しづつ、目を通して(何べんも途中で途切れて仕舞ふのだ)ゐたら、電車は恙無く都立家政驛のプラットホームに滑り込んだ。

 改札を出て直ぐ左に折れ、五分も歩かないうちに、Kの黄色い看板が見えてくる。その途中に何とかいふ印度料理のお店があつて、家族連れが出るところだつた。カレーやナンを鱈腹食べたのだらうなと想像し、併し印度料理で呑むとして、何が似合ふのだらうと考へさうになつたところで、Kの暖簾が目の前にあつた。印度料理の件はそれきりである。かういふのは實地に試さないと、はつきりしないにちがひない。

 友人は先に着いてゐて、先に始めてゐた。炭酸が得意ではない彼女は、もつぱら甲類焼酎の水割りで、卓子には焼き鱈子の鉢が乗せられてゐる。

「これだけ、先に註文しておいたから」

やあやあ久しぶりと挨拶をし、サッポロ黒ラベルの中ジョッキを女将さんに頼みながら、ちよつと困つたなあと思つた。鱈子や明太子…魚卵の類は好きではない。つき出しは鶏と蒟蒻と厚揚げをさつと焚いたもの。この厚揚げがひどく旨くてびつくりした。厚揚げと書いたが、口当りは寧ろ生揚げに近い。半分くらゐはそのままで、残りは七味唐辛子を少し振つて食べた。

 食べながら、またサッポロを呑みながら、我われは何をつまみにするか、相談した。苦瓜と厚揚げの炒めものは旨さうだが、彼女は苦手である。それにこちらは少々、空腹でもある。

「ミンチカツは、どうだらう」

と提案したら、素早く賛意が示された。それから魚も慾しい。Kの焼き魚が旨いのは知つてゐる。お刺身も信用していいだらう。安定が期待される蛸か、そろそろ時節を迎へる鰹か。

「どつちが、いいでせうね」

「鰹」

いいでせうねの“ね”を云ふ前に答が返つてきた。實に素早い。それを聞きつけた女将さんが

「メンチと鰹ね」

と確かめてから、註文を受けて呉れた。こちらもまた、實に素早い。

 尤も註文したからと云つて、直ぐにお皿が出てくる筈もなく、我われの目の前にあるのは焼き鱈子である。そして前述のとほり、わたしは魚卵を好まない。かういふ嗜好をあからさまにしないのが、世間の礼儀の筈だが、我われは酒席を共にするのに馴れてゐるし、友人もこれで中々好ききらひの多いくちでもある。そこで遠慮せず

「鱈子は苦手なんだよなあ」

と云ふと、一驚を喫した顔になつて

「ここのは美味しいんだよ」

自分が焼いたわけでもないのに、何故か威張つてゐる。そこでその自信に敬意を表してつまんでみると、これが中々にうまい。鱈子の類を苦手とするのは、どうも生臭く感じられるからだが、そんな感じはされなくて、焼き方が巧かつたのか、元がよかつたのか。両方だらうな、きつと。

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 さうかうするうちに、鰹のお刺身が運ばれてきた。運ばれてきた直ぐ後に、厨房の大将が

「生姜、乗せてましたつけ」

ちよいと慌てた口調で、それで鉢を見ると、確かに鮮やかな黄色が見えない。大笑ひしながら、生姜を乗せてもらつた。外に刻んだ白葱と茗荷が乗せられて、鰹のねつとりした食感をいい具合に受けとめてゐた。双方ひと切れづつ、食べたところに、ファンファーレを伴つたミンチカツ(二枚)が登場したから、黒ラベルのお代りを頼んだ。ミンチカツが揚げたてなのは云ふまでもなく、なので最初からウスター・ソースがかかつてゐたのは残念に思へたが、かぢつてみると旨い。黒ラベルにもよく似合ふ。

 ところで友人は猫舌であつて、素早くかぢれない。取分け皿に自分のミンチカツを置いて、冷めるのを待つてゐる。

「いい具合に、温くならないとね」

「判るけれど、熱いのが味の一部になることだつて、あると思ふなあ」

ささやかな反論を試みると、まあ、それもさうだけどと云ひつつ

「熱いも辛いも、hotぢやあないの」

さう云はれると、確かに辛みは味覚の一種といふより、痛覚である。今度はこちらが、まあ、それもさうだなあと納得させられた。“いい具合に”温くなつたミンチカツは、彼女の舌にも満足のゆく出來であつたらしい。

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 ミンチカツを平らげる辺りで麦酒を呑み干し、冷酒に切り替へた。[神鷹]といふ明石の銘柄。明石と云へば、光源氏の君が流された土地…都から牛車だか何だかで移動するとして、何日くらゐ掛かるのか知ら…だが、流石にあの時代、如何に天子の息子でも、呑めない味だらうと思ひながら呑む。尤も今の舌で味はへば、可もなく不可もなしくらゐの出來。但しそれはお酒単獨で呑む場合に限られる。旨い肴と気分のいい呑み仲間がゐれば、お酒の味はぐつと佳くなるもので、呑み喰ひの評論とやらの大半…思ひ切つて云へばほぼ全部が、一讀にも値しないのは、この辺りの事情に目を瞑つてゐるか、理解してゐない(まさか理解出来てゐないことはなからう)ところにある。

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 勿論その場でそんなことを考へたわけはなく、寧ろ[神鷹]に適はす肴に迷つてゐた。身の重いものは慾しくなかつたが、お漬物や酢のものだと軽すぎる。そこで焼き厚揚げを撰んだ。この辺の嗜好は友人と近しいところがあつて、おおと歓んで呉れた。大書するほどの厚揚げではなからうが、厨房の大将は塩梅を心得てゐる。火はちやんと通して、焦げない程度に焼き上げられた厚揚げは矢張り旨い。最後に烏龍ハイで口を洗つて、今夜はお開きにしませうとなつた。〆て6,000円足らず。旨いつまみと賑やかなお喋りの代金と見れば、妥当なところだと思はれる。綺麗に割り勘。都立家政驛まで一緒に歩いて、お休みを云ひ、西武新宿線に乗つた。乗つてゐるうちに、何となくお腹が物足りない風に感じられてきて、最寄りの中井驛で降りたら、目の前にチェーンのラーメン屋があつた。潜り込んで味玉ラーメンといふのを一ぱい、啜つてから帰宅した。