閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

352 土鍋といふ大きな物体

 一人用の土鍋といふのを、獨居自炊を始めた頃に使つてゐて、それで天麩羅饂飩を煮たことがある。天麩羅はその辺のマーケットで買つた。饂飩が煮えるの待つ間に、そのマーケットの天麩羅が冷たいのが気になつたので

(饂飩が煮上がる直前に天麩羅をはふり込めば、熱くてうまい天麩羅饂飩になるだらう)

と思ひついた。それで土鍋に天麩羅を入れ、蓋をして、三十秒…一分には到らなかつたが、待つてから卓に運んで、蓋を開けたら、天麩羅の衣がつゆの大半を吸取つてゐたので一驚を喫した。自炊で失敗したのはこの前にもこの後にもあるけれど、食べるのがどうにもかうにも我慢ならなかつたのは、この一ぺんきりである。あの後に何を食べたのか、さつぱり覚えてゐない。

 さう云へばその一人用土鍋もいつの間にどこかへ行つて仕舞つて、併し惜しいと思はないのは天麩羅饂飩の失敗の所為か。それはそれであるとして、外に考へられるのは

「土鍋といふのは大きな物なのだ」

といふ気分である。幼少期の冬に家族や親族と一緒につついた水炊きだか寄鍋だかは、大きな土鍋で煮えてゐて、そこでは白菜や長葱や豚肉や鶏肉や鱈や豆腐や菊菜や榎茸や椎茸(今では春雨だの鮭だの肉団子だの、或は餃子や鰤のお刺身やお餅が入ることもある)がぎつしり煮えて、時に海老や蟹が入りもして、何とも嬉しかつた。さういふのに目と鼻と舌が馴染みきると、ヘルメットの代用品のやうに小さな土鍋は、どうも侘しく感じられるからこまる。

 その侘しさは小さいのがいけないのでなく、いやこれも小ささゆゑではあるのだが、食べたらお終ひといふ不安乃至不満を感じるからだらうか。大きな土鍋であつても食べ尽したら終りなのは同じと判りはしても、そちらだとほつとけば、中身が戻りさうな気がする。さういふ勘違ひを許して呉れるのが大きな土鍋であつて、その大きな土鍋で煮えてゐるものは、肉でも魚でも野菜でも何を取つても呑めるのが有り難い。また土鍋で煮えたのを食べるのに、何を呑まなくてはならないといふこともなくて、麦酒でもお燗酒でも冷酒でも葡萄酒でも焼酎でも、ひよつとしたらヰスキィの水割りだつてかまふまい。何なら麦酒から始め、葡萄酒の赤白を経て、冷酒に到つても問題はなく、となれば食事とつまみを兼ねる食べものが入る土鍋は大きいに越したことはなく、家族でも友人でも土鍋を囲む何人か、たれかがゐる方が遥かに望ましい、といふより、さういふ場所の眞ん中に似合ふのが土鍋即ち鍋料理なのだと考へたい。さういふ大きさの土鍋ならうつかり、マーケットの天麩羅を落として仕舞つても、どうにかなるのではないだらうか。