閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

383 お燗酒のこと

 尊敬する内田百閒の『御馳走帖』(中公文庫に収められてゐる)に“我が酒歴”といふ一文がある。題名通りの随筆で、陸軍の士官學校で教官を勤めてゐた時期、地蔵横丁の[三勝]といふ高等縄暖簾で、お酒を覚えた頃の一節が記されてある。

 

 お酒はいつも白鶴の一点張りで(中略)お燗番のおやぢさんが見たお銚子の肌で、気に入る迄は決してよこさなかつた。

 

 通ふ内に懇意になつた百閒先生は、[三勝]が混雑したある晩、我慢出來ずに

 

 そこにあつた燗徳利を自分で取つて、火に掛かつてゐる鐵瓶につけたら、おやぢさんが、駄目です。そんな事をすると味が惡くなりますと云つた。

 

 それでその一本は呑む事にしたさうだが、随分と驚かされたらしい。

 

 私のつけたお燗はぎすぎすして、突つ張らかつて、いつもの様なふつくらした円味は丸でなくなつてゐた。

 

 と續いてある。ヴェテランになつてからの百鬼園氏は年間に一石五斗のお酒…一升瓶で百五十本の計算になる…を平らげるに到るのだが、[三勝]の頃は未だ志を立てた計りだつたのだらう。

 考へてみたら、お燗酒の味はひがお燗の温度で変るのは当然で、冷酒や白葡萄酒の冷し方が下手なのは、ただ冷たいだけなのと同じである。そのくせ我われはお燗の具合に頓着しない。温燗とか人肌程度が註文の精々ではなからうか。

 併しどのお酒も同じ温度で温めればいいかといふと、決してそんな事はない。一ぺん、お酒の催しに行つた時、同じ銘柄のお酒を、ぬるいのと温かいのと熱いので呑む機会があつて、香りも舌触りも喉越しも…詰り味はひは丸で異なつた。それは予想の範囲だつたが、別の銘柄だと、異なり方がちがつてゐて、その異なり方がまつたくと云つていいくらゐだつたのには驚かされた。

 (いやはや、繊細なものだなあ)

と感心したのは、冷酒しか知らなかつたゆゑか。とは云へ、お燗酒もまた美味いものと体感…實感出來たのは、確かに有難い経験であつた。

 

 それで以降はお燗酒計りになつたかと云へばそんな事にはならず、呑んでも冷やか温燗に留まつてゐる。なんだ結局恰好だけかと思はれるのは心外で、[三勝]のやうに、“お燗番のおやぢさん”が居るお店を知らないからである。殆どの場合

 「熱ければ、いいでせう」

と云はん計りで、もしかして電子レンジに何秒かはふり込んだのを、お待ち遠さまと持つてくるのだらうか。さういふお燗酒は大抵まづいし、少し温んだらもつとまづくなる。わたしは呑みたくない。お燗がうまいんだぜと気取りたい若もの相手(果して何人ゐるものやら)だつたら、熱さで誤魔化せるだらうが、さういふ若ものがそれからもお酒を味はひ續けるかどうか。わたしの知つた事ではない。

 詰りお店からすれば、お燗酒…訂正、うまいお燗酒を呑ませるのは實に面倒といふ事になる。さつきの[三勝]はお燗は長火鉢に銅壺を置いて、そのお湯でお燗をつけてお燗番さんが様子を見て、肴には唐墨や海鼠腸、がざみを出したとあるから、確かに高等縄暖簾であつた。唐墨は極端としても、お燗の調子は見てもらひたいし、具合のいいお銚子に適ふ肴だつて慾しい。縄暖簾の気樂さと廉さでそれを求めるのは無理がある。

 

 わたしとしてはここで、吉田健一の“おでん屋”といふ短い一文(光文社文庫の『酒肴酒』に入つてゐる)からどうしても引用しなくてはならない。

 

 安くてうまい酒というのもあって、おでん屋の主人の心がけ次第で見つけることが出來る。おでん屋というのは安い酒を飲ませるところで、安い紛いものを出す場所ではない。安くてうまいものにおでんがあり、酒も酒自体は決して高いものではないから、おでん屋というものが誕生したのであって、それ以外におでん屋が存在する理由はない。

 

 大坂は道頓堀のおでん屋で舌鼓を打ちながら、錫の器でお燗酒を呑んでゐたらしい宰相の倅が云ふのはまつたく正しい。かれを愉ましたおでんが幾らだつたか、そこははつきりしないけれど、“飲みたいから飲み、食べたくなければ、豆腐の一つも頼んで”懐と相談せずに済んだとあるから、その程度だつたのだらう。おでん屋にお燗番が居たのか知らと疑念を抱く必要はないので、かういふお店なら、ご主人がお燗番を兼ねたに決つてゐる。

 

 出來のいい冷酒は出來のいい白葡萄酒と似たところがあつて、食べものを撰ばない。仮にオムレツとハンバーグが出された時に偶々冷酒しか無かつたとしても、その冷酒が相応の出來なら、それで平らげるのは無理ではない。これがお燗酒の場合、小芋の煮ころがしや鯖の煮つけやじやこおろし、或は鰯の干物でなければ、どうもしつくりこない。お燗酒が惡いからでないのは勿論で、お燗酒と肴がさういふ風に育つてきた…要は伝統だと考へる外にない。

 かう考へると、お燗酒を樂むには、そこに似合ひの肴を樂める程度に、舌の成熟が求められるのではないか。所謂クラッシックな日本食に、成熟も何もあつたものぢやあない、と苦笑するひとが出さうでもあるが、家でも店でも、そんな食べもの…煮つけや和へもの…を当り前に目にする機会がどのくらゐあるかねえと疑念を抱くのは、意地の惡い見立てと云はれるか知ら。

 まあ厭みを云ふ暇があれば、お燗のうまいお店を探して、焼き厚揚げやら鯵の開き、烏賊の焙りなんぞで一ぱい、やつつける方がいい。えらく大雑把な態度だと思ふのは早計で、お燗酒といふ面倒をきちんとこなすお店だつたら、肴への気配りを忘れてゐないと考へて間違ひない。上手に焙つた雑魚天(本当は揚げたてが嬉しいんだが、東夷の町では巡りあへないだらう)で、お銚子を二本かもしかして三本も呑めば、温められた月が、腹の中でゆつくりと昇つてくる。