閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

582 ヒヤかレイを呑みたい

 冷や酒(ヒヤザケ)と冷酒(レイシユ)が異なると知つたのはお酒に随分と馴染んでからであつた。念の為に云ふとヒヤザケはお燗をしてゐない云はば常温を指し、レイシユは水乃至氷乃至冷藏した冷たいのを意味する。ややこしい。

 では常温なのに何故ヒヤザケかと云へば、お燗をつけてゐないのを示す呼び方として成り立つたらしい。少し落ち着けば、冷すのは技術として六づかしいのは直ぐに解る。氷や雪を室に保存するのが近代までの冷藏法で、よほど高貴の身分でなければ、冷たい飲みものとは無縁だつたにちがひない。

 「熱くしてゐないから、冷やだ」

と呼ぶのを乱暴だなあと思ふのは、冷藏が現代の我われにとつて、ありふれた技術となつてゐるからに過ぎない。

 併し温めて呑むお燗の技法は、お酒の呑み方として一般的だつたのか知ら。温めるのもまた贅沢な技法だつたと想像して、それを誤りとは云ひにくい気がする。大体お酒の呑み方がどう変化したものか。一年を通して醸つたのは、ほぼ確實と云つてよく、お燗もなにも、泡がふつふつ立つた温かいのを、甕から掬つて呑んだとも思へてくる。それはそれで旨かつたらうな。いやごく初期の醸造は平城のお寺が担当したといふから、さういふお行儀の惡い眞似は六づかしかつたか。

 お燗は厭だと云ふひとがゐる。

 あの匂ひがどうも、ね。

 気持ちは判らなくもない。確かに安居酒屋のお燗は熱いだけで、徳利から妙な匂ひが立ちのぼる。ああいふのを呑んでしまふと、お燗はまづいと思つても仕方がない。と云つてから弁護を始めると、お燗をまづく感じるのは理由がある。第一は簡単で、お酒自体がまづい。旨いまづいを論じはじめたら切りがないから踏み込まないけれども。

 第二にお燗のつけ方が下手なのを挙げたい。安居酒屋では間違ひなく、電子レンジで何十秒だか温めてゐて、それでうまくいけば寧ろ不思議である。どの銘柄を何度で、またどれくらゐの時間で温めるか、この辺をぴたりと合はせたお燗は香りが綺麗に開いて、舌触りや喉を過ぎる感じが快く、詰り實にうまい。鰯の塩焼きやら鯵の開き、でなければ湯豆腐をお供に、ゆつくり味はひたくなる。但しその為には銘柄と温度と時間を、時季でちがへる勘…いやここは矢張り技術と呼びませう、技術が不可欠でもあつて、薄利多賣が基本の安居酒屋で、そんな手間を掛けられる筈がない。

 だから冷せばいい。

 さう考へるのも、實のところ安直である。ガンマンのハーヴェイ・ロヴェル(酒精中毒者)は、マーティニについて

 「冷たくすれば一応は旨く感じさせることが出來るのだ」

と論じてゐる。マーティニは詳しくないから、かれの意見が妥当かどうかはさて措き、この指摘は冷酒…レイシユにも綺麗に当て嵌まる。要するに冷藏庫でかりかりにすれば冷酒になるわけではないので、その辺りは屡々誤解、勘違ひされてゐるし、酒藏も無闇に冷して呑ますのを当然としすぎる気配がある。丸太は大袈裟なことを云ふと思ふひとは、冷藏庫で冷したお酒を薄手のグラスに入れ、掌で温めながら少しづつ呑むといい。どこかでぐつと香りが立つて、味はひの輪郭がはつきりしてくる。それがそのお酒の適切な冷え具合で、殆どの場合、掌にくるんでから、"どこかでぐつと"まで、ある程度の時間が掛かる。詰り冷し過ぎと云つてよい。

 経験的に云へば、秋頃から翌年の早春の候までなら、窓辺や玄関口に置けば、冷藏庫といふ文明の利器に頼らずとも、常温…ヒヤザケより少しひいやりした、詰りいい具合になつて、自分が呑むことだけを考へれば、これくらゐが丁度宜しい。尤も保存の面を見れば感心しない。呑み屋でかういふ眞似は六づかしからう。(眞夏に)氷を浮べた器で冷す方法はあるが、それだと葡萄酒擬きになりかねない。

 「擬きでも何でも旨くなればいい」

さう笑ふ気持ちも判らなくはないとして、酢味噌和へやら焙つた厚揚げ、烏賊のお刺身で冷酒を一ぱい…と思ふなら、氷を入れるの器は木桶でないと締らないし、店でなら金盥になるのか。どちらにせよ、一升壜を突つ込むわけにもゆかず、徳利だか硝子壜だかに移す必要が出る。甚だ面倒である。かう云ふと惡しき形式主義だと怒られると思ふけれど、お酒は目で呑む…少くともその一面が色濃くあるから、實は面倒を厭ふ方が間違つてゐる。ただ

 「流石にそこまで手を掛けるのは、お酒に徹したお店でもない限り、ちよつとなあ」

と思ふのは矢張り人情で、わたしの本心もこちらに近い。そんなら蓋附きの徳利を入手して、窓辺に置く方がいい。詰るところレイシユよりヒヤザケの方が安直であつて、さうなると我われのご先祖がわざわざ温めたがつた事情を、どう考へればいいのか知ら。ハーヴェイ・ロヴェルに訊いてみたい気もするが、かれはマーティニやシャンパンやマールが専門だから、論評には期待しにくい。