閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

552 丸太花道、東へ

  その前に令和二年末のある日の話をする。
 旧い友人が十年ほど、加西に住んでゐる。単身赴任なので年の瀬を自宅で過すのは当然。その一日を縫つて会つた。巷間、色々と騒がしくあるけれど、互ひに年齢が年齢である。次の機会を得られるものか、まことに怪しい。
 で。どうする。
 取敢ず梅田茶屋町に出た。理由はない。大昔にあつた古書店街が中昔に無くなつたことを知つて、昭和もまた遠くなりにけりなのだと思つた。
 何用があつて梅田に出たわけではない。旧國鐵大阪驛から阪急電鉄大阪梅田驛の間は大きな再開發が續いてゐる。正直なところ、年に一ぺん帰るくらゐでは、とてもその変化は判るものでなく、きつと迷ふ。友人も加西暮しが長くなつた所為か、人醉ひしさうだと(例年を思へばさうでもないのに)苦笑を浮べてゐた。
 新御堂筋から桜橋の方向に歩いたところで、商店街に"熟女クラブ オールディーズ"の看板が目に入つた。熟女でオールディーズなら、婆さんぢやあなからうか。他人さまの嗜好に文句を云ふ積りではないけれども。

 大阪駅前第一ビルの一階に[大林カメラ]といふカメラ屋がある。卅年余り前、随分と通つた。キヤノン EOS RTのデッドストック品(確か五万五千円)や京セラ コンタックスRXを買つた記憶がある。あれこれ冷かしたが、物慾をそそられなかつたのは年齢ゆゑか、必要なのは揃つてゐるからか。

 晝めしを喰はうとそのまま地下に降りた。まあ何かしら営業してゐるだらうと思つたからだが、いや確かに何軒か店は開いてもゐたが、カウンタだけの饂飩屋でなければ串かつ屋だつた。これあいかん。それで堂島の地下街に移つて、コーヒー・ショップでサンドウィッチを食べ、地上に出てから中之島、大川河岸を経て、天神橋筋まで歩いた。
 この日は荒天が予想される直前であつた。陽は暖かく、風は凪いでゐて、外出に誂へたやうな感じがされた。我われは陽光に莫迦話を撒き散らしながら歩く。が、そろそろ脚が草臥れてもきた。日頃の不摂生はこんな時に顔を見せる。
 「ほいで、どないするかね」
といふのは晩めしの意味で、何しろ時期が惡い。素早く済ますのに越したことはなからう。
 「開店が十七時の予定やからな。速やかに始める、ちふ方向でいかうや」
さう同意が成り立つた。成り立たせたのが環状線天満驛辺りの天神橋筋六丁目商店街。驛を挟んだ向ひは何と云ふか、おそろしくごみごみした、小汚い呑み屋が佃煮のやうに並ぶ混一角になる。時刻を見ると十六時過ぎなのだが、佃煮の中では既に、大勢がご機嫌になつてゐる。何と云ふか、實にまあアレな情景だなあ。それは兎も角として、さてどうするか。

 「先に立呑屋で麦酒の一ぱいも引つ掛ける方法はあるな」
 「身動きが面倒になりさうでもある」

 十七時迄待つてから、お目当てに入つた。
 がらんとしてゐる。
 勿論気にはしない。何しろ脚が草臥れてゐるし、喉も渇いてゐる。取急いで、友人はサッポロの黒ラベル、わたしはオリオンを註文した。お互ひよく生き延びたと乾盃して、ごつんと呑んだ。まつたくうまい。
 ここは妙な呑み屋で、奄美料理を銘打ちつつ、獨國式の食べものも充實してゐる。友人は麦酒を除くと蒸溜酒好み。こちらは醸造酒好きだから、双方に具合がいい。もつと大事なのは、奄美風も獨國式も呑み喰ひがうまいことで、要は気に入りなんである。つき出しは刻んだ白菜のお漬物に細切りのハムと塩昆布を乗せた小鉢。それから
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 細切り白身魚のフライ(タルタル・ソース)
 ジャーマン・ポテト・サラド。
 豚の角煮。
 苦瓜と豆腐の炒めもの。
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 いづれも宜しい。續けてリーゲル・デュンケルといふ黑麦酒(壜入り)を呑んだ。口当りが非常にやはらかく感じられたが、勘違ひの可能性もある。更にサッポロのグランポレール(赤。ヴィンテージや銘柄は判然としない)は何のサーヴィスか、多めに注いでくれたので嬉しくなる。友人は黑糖焼酎の何やらを割らずに呑んでゐたと思ふ。この辺から醉ひがまはつてきたのか、メモや画像が曖昧…訂正、いい加減になつてゐる。はつきりしてゐるのは
 「もちつと、喰はうか」
 「おにぎりが、エエな」
と註文した肉味噌おにぎりが、予想よりぐつと佳かつたことで、感心するより寧ろ呆れて仕舞つた。既に閉めた[たこ梅]といふ呑み屋でどうかすると喰へたおにぎりには及ばないが(あれは品書きに出てゐなかつた。きつと大将の気分で作つたのだらう)、十分にうまかつた。
 散々呑み喰ひを樂んで、莫迦話を樂んで、お店を出た。最後に地元のコンヴィニエンス・ストアで罐珈琲を飲み、次の機会まで生き延びることを約束しておやすみを云つた。翌日と翌々日、両足の筋肉痛が酷くて困つた。

 それで年の暮れ年の明けは何もしなかつた。
 ラヂオもテレ・ヴィジョンも詰らないもので、手帖に予定を書きつけたり、本の頁をぱらぱら捲つたり、麦酒を呑んでゐたら、令和三年になつた。

 明けて目出度し、といふわけで、京姫をお屠蘇にお清しで餅をふたつ食べた。棒鱈、昆布巻き、蒲鉾。セレベス芋を焚いたのも食べた。ニュー・イヤーの驛傳を観て、晝にはヱビス・ビールを奢つて、お清しの餅を更にふたつ食べた。午后は天皇杯サッカーの決勝戰見物。テレ・ヴィジョンの値うちはもう生中継以外に残つてゐないのだなと思ふ。
 なので、と云ふのは妙かも知れないが、正月二日三日は箱根の驛傳を観續けた。街路の見物人が少く、撰手の走る音を聞けるのがいい。前年の大相撲…立合ひや、プロ野球…打球や捕球音でもさうだつた。我われはスポーツの音に、無関心であつてはいけない。と書いて、會場…訂正、競技場での太鼓や喇叭を批判する一文をものに出來るだらうかと考へた。纏まつたら書かう。
 ところで冬と云へば鍋もので、あれは家族や友人でざはざはしながらでないと旨くないから、獨居してゐると食べる機会を持てない。だからかどうか、家で寄せ鍋が用意されたのを見て、嬉しくなつた。豆腐。豚のばら肉。葱。菊菜。榎茸と舞茸。鮭。味つけぽん酢と辛い生姜(一本六百円くらゐもするらしい壜詰)で。贅沢とは呼べないが、馴染んだ味だから實に旨い。それからヱビス・ビールと八海山の雪室貯藏。残つたお出汁は翌日の晝、野菜と中華麺を入れて平らげた。

 どうも面倒になつた。
 東に下るのがそれで、併し東都には用事がある。用事を投げ棄てられればいいのに、残念ながらさうはゆかない。年末に会つた友人も、長い休暇の終り頃には
 「そのまンま、家に篭つてても、平気な気イがする」
と笑つてゐたし、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏も同じではなからうか。さうにちがひない。
 ロフティングの"ドリトル先生"ものに 、"世捨て人"のルカといふ(人殺しの汚名を着せられた)憐れな男がゐたのを思ひ出した。勿論ルカの汚名はドリトル先生が晴らすのだが、そのルカですら巷間との繋りを断ち切れなかつた。わたしの用件なんぞ、大したものでもないと思ふことにする。
 東海道新幹線の東京行の時刻表を確めた。新大阪驛始發はのぞみ號が毎時零分、廿一分、卅分、卅九分、五十一分、五十七分。十八分のひかり號に五十四分のこだま號。意外なくらゐにある。過密なダイヤグラムとも思へるが、さういふ運行をこなすのが凄い。面倒な気分は無くならないにしても、東海道新幹線に敬意を示す為にも、乗らうと思つた。外に出ると風が冷たくて、仕舞つたと思つたがもう遅い。

 ひと先づ梅田に出た。新大阪驛に行くのだから、西中島南方で地下鐵に乗る方が早いのは知つてゐるけれど、さうしたいと思つた。何故さう思つたかは解らない。
 兎に角出たから[大林カメラ]を冷やかした。年末に冷やかした時、ちよと気になるレンズがあつたか筈だが見当らなかつた。記憶違ひか先にたれかが買つたかだらう。その足で[八百富写真機店]に行つたら、リコーのGRデジタルⅡを見附けて困つた。
 デジタル・カメラに特段の思ひ入れは持たない方だが、この機種だけは例外で、専用のケイスやストラップ、フヰルタやフードを附ける為のアダプタも手元に残してある。尤も古い機種だから中々目にしない。それで少し昂奮した。値段と具合はまあまあ。この場合の"まあまあ"は、素早く調子が惡くなつても…一連のGRデジタルには、レンズ・カヴァの開閉がをかしくなる持病がある…我慢出來る程度の意味。
 だから買つた。
 元箱や附属品が全部揃つてゐたので、荷物が嵩張る破目になつた。
 自由席の乗車券を贖つて新大阪驛迄動いた。麦酒とサンドウィッチを買つてからプラット・ホームに上がると、閑散としてゐる。例年だと列が蛇のやうになつてゐるのに。時代時節を感じつつ、十五時四十八分のひかり514號に乗つた。座席の埋り具合は四割程度か。空いてゐるのが有難いのは当然として、新幹線は大変なのだらうとも思ふ。

 京都驛を發車するのを待つて、一番搾りを開けた。新幹線に麦酒は似合ふなあと思つてゐたら、車内販賣のお姉さんが通つたからびつくりした。こだま號では用意されてゐないサーヴィスだからだが、驚く方が妙かも知れない。不意に"こだま號に食堂車を"といふスローガンが浮んだ。機会を作つて書かうと思ふ。名古屋驛を過ぎた。京丹波高原豚カツとだし巻きサンド(また長い名前だなあ)を食べ、黒ラベルを呑んで、東京まで眠ることにした。