閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

863 白つぽくて温かな一皿の話

 子供の頃…ざつと四十年余り前、クリーム・シチューは御馳走だつた。豚肉、馬鈴薯、玉葱、人参が入つてゐた。底が広く、淺いお皿で出てきて、バゲットを焼いたのが添へられてゐた。祖父母と同居してゐた家なので、洋風の食べものが登場する機會はそんなに多くなかつたから、特別な感じがされたのだと思ふ。

 ざつと確めたところ、クリーム・シチューは日本生れの煮込み料理らしい。例によつて、正確な起源は判らないが、直接には敗戰後の學校給食の献立から發展したといふ。牛乳やバタを使ふから、栄養の面から考案されたのだらう。それが昭和四十年代、ハウス食品からクリーム・シチューの素が發賣されるに到つて、我われの食卓に少しづつ馴染んできたさうで、その辺から数へると、半世紀そこそこの歴史がある。知らなかつたなあ。

 ビーフ・シチューを初めて食べたのは平成元年だつた。はつきり云へるのは、初めてひとり暮しをした年だからで、近所の洋食屋だつた。[ヨシカミ]と記憶してゐる。牛肉の塊がごろんとあつて、いきなり旨かつた。尤も当時の月給で、さうさうしよつちゆう、食べられる値段ではなかつたから、月給が出た最初の休日に平らげるのを樂みにした。[ヨシカミ]のメニュにクリーム・シチューは無かつたが、不思議に思はなかつたのは、あれは家庭の料理と認識してゐた所為か。

 以前に住んでゐた近くに何といふ屋號だつたか、別の小さな洋食屋があつた。そこはフライとハンバーグを得意にしてゐて(ハンバーグを註文したら、その場で挽き肉をぱんぱんと小判型に仕上げて焼くのだ)、ここも中々に旨かつた。気が向くと足を運べる程度の値段だつたのも有難かつた。大体は定食。ごはんとお味噌汁と香のものが一緒で、今風に云へば昭和レトロ…まつたく厭な言葉だねえ…とでもいへばいいのか、そんな感じがした。その店のメニュを丹念に見た記憶はないけれども、ビーフ・シチューは勿論、クリーム・シチューもなかつたと思ふ。

 さう考えへると、クリーム・シチューは洋食に属しつつ、また家庭料理にも属する、獨特の位置を占めてゐると云へさうである。實際、家の外で目にしたのは、クリスマスだかに引つ掛けた一度きりだつた。家で食べたのには及ばなくても旨かつたのは確かだけれど、さて何を呑めばいいのか判らないのはこまつた。と云ふことは、クリーム・シチューを少年少女の洋食…御馳走と見立てたくなる。その見立てが誤りでなければ、あの白つぽくて温かな一皿が、家庭の中に根を張つて外出を拒む姿にも納得がゆく。古風な母親が聯想されると云つたら、どこかから咜られるだらうか。