閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

872 赤いあれの話

 ソーセイジに就て先ず遡ったところから云うと、我が國での始りは判然としない。文献上では明治廿五年に發行された『農業製造篇』の"燻腿、燻肉、及腸詰製造法"の記述が一ばん古いらしい。著者は農學博士の今関常次郎。國會図書館のデジタル・アーカイヴに収められている。目次を見ると、砂糖や澱粉、日本酒に麦酒に葡萄酒、醤油や味噌だけでなく、烟草、染料、木蝋の製造法まで記載があるから、所謂ハウ・トゥの本でないのは明かといっていい。

 参考までにいう。明治廿五年は現在のアサヒビールが發賣され、『指輪物語』のトールキン、尊敬する檀一雄の師匠筋にあたる佐藤春夫が生れ、無惨絵で名高い月岡芳年、幕末に賢侯と謳われた宇和島伊達宗城が死去している。

 日本での製造が本格的に始ったのは、どうやら廿世紀…明治末期から大正にかけて…に入ってかららしい。ことに最初の欧州大戰で捕虜のドイツ人を収容したのが、小さからぬ切っ掛けとなったそうで、栄養価の高さに着目した政府が、作り方を教わったのだという。尤も手間暇を考えた時、高いのは栄養価だけでなく、値段にも及んだろうなと想像するのは容易い。当時の日本人…我われの曾祖父母くらいの世代になるだろうか…が、どうやって調理していたものか、気にならなくもない。

 

 さて時間を一ぺんに卅年余り飛ばし、太平洋戰争の敗戰後に目を移す。國中が餓えと貧にくるまれた時期から少し後かと思うが、ソーセイジは再び、高い栄養価で注目されたという。元を辿れば獸肉だからね、すりゃあ、そうだよ。

 併し目のつけどころは兎も角、どうもうまくゆかない。簡単に云えば、肉の質が惡かったのと、加工技術の貧弱が重なって、食慾をそそるような見た目にならなかった…有り体に云って、まずそうだったからである。そこで加工肉業者の協會だか、肉屋の親仁の懇親會だか知らないが、これではいかんと打った手が"表面を赤く染める"ことだった。詰り赤ウインナの誕生である。窮余の策だったのだなと同情はしつつ、とんと野蛮な發想をしたものだ、と苦笑いもしたくなる。

 とは云うものの、ばっさり切り捨てず、苦笑いを浮べる理由は簡単で、おれの好物なんである。

 串に刺したのを焼いてよく、

 同じく揚げてよく、

 塩胡椒かケチャップで炒めるのもまたよい。

 或は市販のおでんのつゆで焼き豆腐やうで玉子、刻み葱と一緒に煮るのも惡くない…と書いたら、舌のすすどい讀者諸嬢諸氏は勿論、捕虜だったドイツ人からも、おんなしなら、ちゃんとしたのを買いなさいよ、と助言を頂けるんではないか。もしかするとドイツ人なら、あんな真っ赤な物体は、我らがソーセイジ族に存在しないと断ずる可能性だってある。そう云われたら反論は實際のところ不可能で…こちとら、ソーセイジといえば、給食の魚肉ソーセイジでなけりゃあ、遠足のお弁当の赤ウインナだったんだ。それに開き直り序でに云うけれど、上等のソーセイジだったら、素直にうでるか焼くかするのが一ばん旨い。廉な食べ方には廉な材料が似合うものだとここでは主張するとして、今関博士ならどう応じてくるだろう。