閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1000 区切り

 数が多ければ、えらいのかと云はれたら、さうとは限らないよねえ、と応じざるを得ない。例外があるのは念を押すまでもなく、たとへば本塁打の数は、多ければそれだけ大きく胸を張れる。併し前科だつたら、少いに越したことはない。更に数の多少と、えらいかどうかが、直接に関係しない事柄もあつて、文章はそこに含まれる。何しろ数をこなして、上手になる保證はまつたくないんだから。

 その耀かしい例外が、星新一…改めるまでもなく、ショート・ショートの名手。「白い服の男」や「生活維持省」といつた、ディストピア(を肯定した視線)の恐ろしい一筆書きは忘れ難い…なのは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に、説明する必要はないでせう。あの毒気がきつく、もしかすると些か狷介で、膨大な数のショート・ショートを遺した小説家は、区切りの千作目を

 「どれがそれだと判つたら、詰らない」

といふ理由で、三作を同時に、異なる雑誌に發表したさうだから、数と質を両立さした、特異なひとと云つていい。

 逆さの視点に立てば、尊敬し私淑もする丸谷才一を挙げねばならない。あのひとは随筆家と批評家と翻訳者と編輯者を兼ねてゐたけれど、本質は長篇小説家であつた。記憶で書くと、生涯に書いた長篇は十指に満たず、私が讀んだのは

 『裏声で歌へ君が代

 『たつたひとりの反乱』

 『女ざかり』

 『輝く日の宮』

の四作に過ぎないが(『横しぐれ』と『笹まくら』は、別扱ひにしていいでせう)、いづれも文章の藝が尽され、小説讀みの快感を堪能させてもらつた。私が云ふのは、星と丸谷の優劣でなく、これだけ対照的なふたり…ショート・ショートと長篇、千と十…が、どちらも偉大な小説家だつたことで、このふたりを挙げれば、文章の量は質と一致しない、或は比例の関係にはないことは、殆ど直線的に證明出來ると思ふ。

 ここまで書いてから、自分の話をするのは、まことに具合が惡いけれど、この手帖は外題の聯番にある通り、千回目に到つた。千回と云つても、プロ野球撰手の聯續試合出場のやうなものだから、書いてゐれば勝手に辿り着く。それに玉石混淆と云ふけれど、この手帖は大石小石の混淆なのだから、決して自慢出來たものぢやあない。出來たものぢやあないけれど、ひとまづの区切りとして、この数を挙げるくらゐは、許してもらへるのではなからうか。

 

 我が閑を持て余す親愛なる讀者諸嬢諸氏には、千回のお附き合ひに、深く御礼を申し上げる。