閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1043 なんばん

 陋屋の近所に定食屋があつて、"チキン南蛮"と大書した看板を出してゐる。我が賢明なる讀者諸嬢諸氏には御存知のとほり、南蛮は元々

 「自國を貴く…中原の華とし、周辺の民族を蔑んだ」

呼び方だつた。他に東夷、北狄西戎があり、南蛮も含め、どれもまあ、酷い字を宛ててゐる。倭なんて、ケモノ扱ひでないだけ(ニンベンがついてゐる)、ましと云へる。

 

 話を戻しますよ。

 南蛮は併し、我が國で蔑称と異なる意味合ひに変貌した。海外渡りの珍しい物…語感としては唐物に近しい…くらゐの響きで、何故さうなつたのか、よく判らない。我が國には古來、外ツ國の文物…佛教(と佛像)と鐵砲、黑船…に甚だしく衝撃を受ける癖がある。華夷で云へば夷に属し、詰り華の光を(ぼんやりながら)容れてゐた倭國である。自國の範囲なら兎も角、とほい異國からの到來物を驚き珍しがり、また貴ぶのは寧ろ、自然な反応な筈で、南蛮は(必ずしも)見下す理由とはならなかつたらう。

 令和の日本で南蛮は、料理の一種と認識されてゐる。冒頭のチキン南蛮然り、鴨(或は鶏)南蛮、カレー南蛮(蕎麦屋では南ばん表記が多い。蛮の字をきらつたものか)、鯵の南蛮漬けも叉然り。

 大雑把に調べると、(長)葱と唐辛子を使つた調理を、大雑把にさう呼ぶらしい。江戸中頃の本では、蕎麦種の紹介に、長葱ヲ用ヰルヲ南蛮トイフ、と書かれた一節があるさうだから、町奴や職人聯中が啜つた蕎麦に、長葱はあしらはれなかつたらしい。長葱の傳來は改めて調べるとするが、中華渡りではない外來を、南蛮(渡來)とひと纏めにする風習は、この時期既に成り立つてゐたことになる。

 とは云ふものの、考へてみると、不思議を感じる。徳川の政権はごく限られた外ツ國と、ごく限られた範囲でしか、つき合はなかつた。天下を取つた家康は、煎じ詰れば田舎の農民、それも素朴な自作農たちの大親分だつた。さういふ背景を持たなかつた太閤が、錢に固執したのと対照的で、貿易や商賣の利に就ては、頭から理解の外だつたにちがひない。それが政権の基本的な性格を形作り、交渉事を厭ふ体質…幕末の対外交渉の下手糞さ加減は、幕閣の無能以上に、二世紀余り掛けて醸成された体質が起因と思へてならない…になつたのではないか。

 

 何を云ひたいんだらう。

 さう。そんな環境の下、珍奇を南蛮と称する風習が成り立つたのが、不思議なんである。あの時期、公にオランダとはつき合ひはあつたが、かれらは紅毛と呼ばれた筈で、南蛮とは位置附けが異なる。

 種子島から始るごく短い期間、日ノ本がポルトガルやスペイン…南蛮(人)と称されたのは、かれらラテンだつた…と交渉を持ち、シャムやルソンまで足を延ばし、教皇猊下に使者を送つたのは事實として、その影響が百余年も續くか知ら。一方で日本語の変化が現代に較べ、遥かに緩かだつたのは想像に難くない。漠然と残つた南蛮といふ単語が、いつの間にやら、唐物とは異なるエキゾチックな響きを持つに到つたと想像するのは、無理があると云ひにくいとも思へる。

 その辺りの細かな事情は、外來語史を繙かないと判るまいが、南蛮といふ単語が、姿かたちを変へ、しぶとく生き残つたのは事實である。蔑称が珍奇となり、料理のひとつと見なされ、近所の看板に大きく書かれてゐるのを思ふと、随分な変遷を辿つたねてと微笑を浮べたくなり、華夷に八釜しいひとが、原意にちかい語感で目にしたら、何を感じるのか、訊いてみたくもなる。さうだ、東夷、北狄西戎が南蛮のやうな受け容れと変遷を遂げなかつた事情は、何だらうかと、疑問を書いておく。日本といふ國…制度の成り立ち、地勢や歴史が、さうさせたのだと思へるけれど、具体的な想像はひどく六つかしい。次の休み、鯵の南蛮漬けで一ぱい、呑りながらひとつ、考へてみませうか。