閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1052 不意の天玉

 某日、夜。不意に某所の天玉蕎麦を思ひだした。さうしたら、舌と胃袋がその気分になつた。この手の食慾は、まつたくたちが惡い。

 翌日、晝。天玉蕎麦が、頭のどこかに残つてゐた。これは足を運ばざあなるまい。空模様も丁度よろしく、ふらりと歩くことにした。

 

 店は狭苦しい。有り体に云つて、小汚い。その分…と云つていいのか、廉価でもある。その廉価を考へれば、中々うまい。品書きは多くない。かけ、月見、たぬき、天麩羅、それから天玉。天麩羅…掻揚げ…は店で揚げてゐて、その欠片がたぬきに使はれる。合理的だなあ。その種ものは組合せが出來る。たぬきに卵を落してもらつたことがあつて…あれはよかつたが、今は天玉蕎麦である。がたぴしする椅子に坐りながら、天玉蕎麦をお願ひしますと云つた。お客は次々入れ替る。隣に坐つたお客は、たぬきの大盛り、その次のお客は天麩羅蕎麦の大盛りを註文した。併し私の目の前には既に、天玉蕎麦がある。そちらへの集中が、人情の当然である。

 掻揚げは大きく、叉分厚い。わづかな隙間に生卵があり、七味唐辛子を振れる余地が無い。先づはその掻揚げを二口ほど囓り、つゆと蕎麦を啜つてから、改めて七味唐辛子をはらはら振つた。さうかうしてゐたら、卵の黄身が崩れた。何とも中途半端に混つて、その具合がこの場合、好もしい。無駄口を叩かず、すつくり平らげて店を出た。御勘定はたつたの四百円。じわりと汗が出てきた。