閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

246 我らの父祖が磨いて育てた

 挽き肉のカツレツ。洋食である。日本製。但し由來ははつきりしない。纏めると

 

明治30年頃、浅草[煉瓦亭]が出した“ミンスミートカツレツ(minced meat cutlet)”が發祥といふ説。minceは挽く、meatは肉、cutletは揚げ物の意。佛語のcoteletteにヒントを得た造語でせうな。

②昭和初期、神戸の[三ッ輪屋精肉店[が、東京の洋食店の“メンチボール(今で云ふミートボールのことらしい)をヒントに考案したといふ説。

 

となるさうで、前者が事実に近い感じがする。何しろ[煉瓦亭]はとんかつでも元祖乃至源流の栄誉も得てゐるのだから、説得力がちがふ。尤も小聲で云ふのだが、“ミンスミートカツレツ”は豚の“カットレット”より2年ほど早い登場らしいから、何かをかしい気もされる。

 近代日本の食肉史は曖昧にしか知らないので(確か明治大帝が“朕ハ是ヨリ断然洋装ヲシ肉ヲ食ス”とか、そんな勅諭を出した筈)、その辺は曖昧なままにしておくとして、旨いものです、あれは。麦酒によく適ふ。定食になるとどうも脂つぽくて感心しないけれど。

 ウスターソースがいい。フライ、コロッケの類なら大体、醤油が似合ふ。また概して揚げたてはそのまま食べるのがうまいのだが、この場合に限つては、最初から“断然ウスターソースニテ食ス”と気張りたくなつてくる。デミグラスソースやタルタルソースも惡くはなくて、要は重くて濃いソースがいいといふことか。

 さて。そろそろ触れなくてはならなささうだから触れる。詰りどう呼ぶか。わたしはミンチカツと呼ぶが、東都ではメンチカツがおほむねではないか。このメンチカツ呼びには違和感があつて、未だに馴染まない。呑み屋で註文する時も、ミンチカツと云ふ。大将なり女将なり店員なりは、必ずメンチ一丁と諾けてくれて、流石にそこをミンチですよと訂正するほど神経質でもないが、矢張り落ち着かない。いや神経質かも知れないなあ。

 「だつて、挽き肉だつたら、牛のミンチとか、合挽きミンチとか、いふでせう」

とある女性(東都のひとである)にさう云ふと、確かにさうねと同意は得られた。併し彼女に云はせれば、そのミンチ肉がカットレットになつたら

「それは、メンチカツなんだけど」

なのださうで、ははあ、そんなものなのかと首肯はしたものの、納得はし難かつた。揚げることで名前が化学変化を起すわけでもあるまいし。

 ミンチがメンチに転化したといふ説がある。ただ音韻の変化を考へると、誤りに思はれる。仮にミ音がメ音に変化し易いとしたら、ミントキャンディだつてメントキャンディにならないとをかしい。音韻學には詳しくないから、断定は控へるけれども、これくらゐなら丸太は何も判つてゐないと叱られもしないだらう。

 尤も“ミンチ/メンチ転化説”は、丸きり無視していいとも思へなくて、ミンスミート…ミンチが、江戸ことば風に訛つたのではないか。明治30年頃の東京なら、文久元治生れの老人が闊歩してゐた筈だし、若ものはその江戸老人の薫陶を諾けただらう。その頃の東京なら、江戸ことば風の發音が残つてゐても不思議ではなく、メンチ(カツ)といふ畿内人の耳には些か奇妙な呼び方の淵源は、寧ろそちらではと考へたい。根拠がある推測ではないので、念の為。

 だが“ミンチ/メンチ問題”より気になるのは(ここからが本題。この先の表記はミンチカツで統一しますよ)、挽き肉をカットレットのやうに仕立てる思ひつきが、ぜんたいどこから生れたのかといふ点である。

 我われのご先祖が明治帝の勅諭以前から、時にこつそり、或は大つぴらに獸肉を嗜んでゐたのは明らか(嘘だと思ふなら、名所図絵に描かれた“山くぢら”の看板を見ればいい)だが、肉を挽くといふ加工の技術を持つてゐたどうか。西洋料理の輸入に伴つて持ち込まれた技法とする方が自然に思はれる。挽き肉を用ゐた西洋料理の代表格と云へば、矢張りハンバーグであらう。明治38(1905)年發行の『欧米料理法全書』には216頁に“ハムボーグ、ステーキ”の名前で紹介されてゐるのが、活字での最もふるい記録らしい。

 

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848982

 

 それだと、“ミンスミートカツレツ”より後になるよと指摘するひとがゐさうで、すすどいとも思ふのだが、全書で紹介される程度にハンバーグが知られてゐたと考へたい。文面を見る限り、現代風のそれではなく、焼いたタルタルステイクのやうだとは云ふへ、明治の後半には挽き肉料理があつたといふ證にはならう。

 ここで日本ハンバーグ・ハンバーガー協会(一般社団法人でかういふのがあるのだね。知らなかつたなあ)の“ハンバーグの歴史”項を見ると

 

http://nhha.lin.gr.jp/hh/history/hamberg.html

 

『明治の文明開化の時代、肉食が奨励され(中略)一般的な家庭料理となったのは、(中略)1962年工場規模で生産されたインスタントハンバーグが市場に流通します。1970年チルドハンバーグが売り出されます』

 

とあるのに注目したい。書き方が非常に大雑把だから、変遷がさつぱり掴めないが、“挽き肉を小判型に纏め、焼き上げる”調理法は、随分と長い間、食卓の人気者に近くなかつたらしい。贅沢な外食だつたのだらうか。

 そこでミンチカツに戻ると、“ハムボーグ、ステーキ”は一応、洋食屋にあつた。ただ人気は残念なもので(何故だらう。当時の日本人にとつて、気味の惡い見た目だつたのか知ら)、洋食屋の親仁は困つたにちがひない。苦心して覚えたのに、腕を振るへない。と思つたかどうか、そこは定かでないが、カットレットを知つて、西洋料理にも

「天麩羅が、あるぞ」

と気がついた可能性はある。だつたら

「ハムボーグだつて、揚げちまへ」

乱暴な方法に發想が進んだとしても、不思議ではない。因みに云ふ。前記『欧米料理法全書』に依ると“ロービーフ1斤ほどを細に切砕し”て用ゐると書いてあつて、予め挽かれた肉を使ふ気配は見受けられない。準備には手間と技倆が求められただらうとは容易な想像であらう。それを天麩羅(!)仕立てに転用したのは、折角の手間暇を無駄にしない為の、苦肉の策ではなかつたか。

 率直に云つて、わたしはそれを笑ふ積りはないし、文明開化の可憐に涙を灌ぐ気持ちもない。一ぺんに受け容れられるには到らなかつたかも知れない…その理由として手間の分だけ高額だつたのではと推測するのは強ちまちがひではないだらう。値段の推移が判然としないのは残念だが、種の用意が面倒なコロッケが、登場の当時は“贅沢な”洋食だつたことを思ひ出せば、同様に見立てても宜しからう…が、この新奇な洋食が確實な愛好家を得たのは、疑ひの余地はない。

 肉の挽き具合。

 種の大きさ。

 衣の調子。

 油の温度。

 揚げる時間。

 あはせるソース。

 かういふ工夫と洗練が重ねられたのは旨いと歓ぶひとがゐたからで、さうでなければ、現代の我われがミンチカツに舌鼓を打つことはなかつた。そしてかういふ工夫と洗練を重ねる場所として、東京ほど似合ひの土地はなかつた。それを江戸といふ都市の特異さ(近世の一時期まで江戸は間違ひなく世界有数の大都市だつた。また江戸は職人が極端に多い男中心の都市でもあつた)から受け継がれた性格に結びつけるのは誤りでない。明治中頃までの東京人(上京者ではなく)のきつと直接の父祖たちは、蕎麦と天麩羅と鮨を磨き上げた人びとであつた。そこで考案され、磨かれ、生き残つた食べものがまづい道理はない…但しそれが現代の東京でも通用する法則なのかどうかと云ふと、甚だ疑はしい…といふものだ。不肖の倅と娘である我われは、ミンチカツを認めまた育てた祖父母…いやその先代か先々代に感謝しなくてはなるまい。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、今夜はミンチカツで麦酒を一ぱい、樂しまうではありませんか。