閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

262 道草(習作)

 道草を食ふとは別段、珍しい云ひ廻しではない筈だが、落ち着いて考へると、道ノ草ヲ食フ意味に解釈出來るから、何かをかしい。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で寝待ノ藤兵衛といふ盗賊が道端の蓼をしがむ場面があつたのを思ひ出した。字面通りに“道草を食”つたわけだが、本來草を食べたのは馬だつた。辞書を見ると、“馬が道端の草を食つて進行が遅くなる”様が転じて、目的地(具体的な場所に限らず、抽象的な目的も含んでゐる)に行く途中で、他のことに時間を費やす様子を指す姿にも用ゐられたらしい。とすれば、寝待ノ親分が蓼をしがんだのは、字面通りだけでなく、原意にも近しい行為だつたと云へる。

 そこで改めて確かめると、道草を食ふのは、どこかに行くとか、何々をするとか、さういふ目的があるから成り立つ。その目的に対して邪魔な行為…邪魔になる要素が道草(を食ふ)だからで、であれば目的を果した後の行為乃至要素は道草と呼べない。併しそれだと喫茶店で珈琲を飲むとして、目的を果す前と後では、同じ喫茶店の同じ珈琲が道草とさうでないのに分けられることになる。それに前者であつても、目的を(予定通り)果せたのなら、その途中の珈琲は道草と呼び難い。もつとややこしいのは、たとへば寫眞を撮りながら近所を歩く場合、そこに道草は生えるのか。矢張り喫茶店に入つたとして、そこで撮れない道理はなく、その喫茶店で註文するのが珈琲でなく、麦酒や葡萄酒であつても、それを道草と呼ぶのがいいのかどうか、判断に迷ふ。

 寫眞を撮るのはそれを職業としてゐない限り、撮る義務を負ふことはない。撮りたいなと思つた時に撮ればいいので、その結果として一枚きり、或は一枚すら撮れなくても、撮りたいと思はなかつたのなら、今日はさうだつたと考へれば済むのだから、気が樂でよい。逆に百枚とかそんな数を撮れる日もあるだらう。寫眞は文章とちがつて、数が質に繋がる期待を持てるから、それはそれで気分がよくなる。どちらにしても日が暮れたら撮るのは終りになる。陽が落ちて残照の町中を歩いてゐると、寫眞になりさうな光景があつても、気にならなくなるもので、そのまま目についた呑み屋に入る。いや目についたといふのは半ば誤魔化しだらうか。カメラを持つて外に出るのは、そのまま呑みに行くのとほぼ同じ意味だから、外に出る前に日が暮れたらあすこに行かうといふ目星はつけてある。

 さう考へるとこの場合の目的は日暮れの呑み屋ではないかと見立てても無理はなく、その見立てが正しいとすれば、晝間の撮影こそが道草ではないかと思へてくる。これは一応、かう書いておけば叱られる心配は少なからうと配慮しただけのことで、晝間が仕事だつたとしても、お疲れさまでしたと会社を出た後の呑み屋をその日の目的としてゐれば、その晝間の仕事は呑み屋に到る道草なのだと云へる。

「まあ尤も、さういふことをややこしく考へたところで、何かに益するわけではありませんな」

「確かにその一面はありませう」

と相槌を打つたのは、偶さか隣り坐つてゐたたれかで、かういふことは珍しくない。そのたれかは言葉を繋げて

「併し考へるといふ行為に、利益だの結論だのが必要なのかと云へば、さうだと断ずるのは無理がありさうにも思ふ」

 さうですかねと云ふ代り…どんな口調でも疑念や反駁の響きが滲みさうだつたから…小振りのぐい呑みを持つた。殆ど黑に思はれる濃い紫に感じられたが、正しいといふ保證はない。確實に云つていいのは、ぐい呑みはお酒を注ぐもので、お酒を注がれた時に旨さうなぐい呑みと、さうではないぐい呑みがある。何がどう違つてさうなるものか。さう云へばマーケットには大量生産されたぐい呑みが並んでゐる。どうやつて造るのかは知らないけれど、どこかの工場の喧騒の中で、コンベヤに乗せられたぐい呑みを想像して、厭な気分になつた。人間が手に持つものは人間の手で造られてもらひたいもので、道草を食はない合理性は困るとも思つた。

「さうなんですね」と隣のたれかが呟いて「コンベヤに並んだぐい呑みで(とここで自分の掌の中を見た)呑めなくはない。ただ手に適ふぐい呑みは、どうしたつて、手に持たないと解らない。だつたら呑んで確かめるしかないんです」

果してそれは道草と呼べるでせうか。コンベヤ品だらうが、職人が自らの手で焼かうが、洩れなければ液体は入りますよね。

「それはそれで、駄目とは云ひにくいでせう。残念ですが、注いだお酒が洩れないのなら、それはぐい呑みの必要な條件を満たしてゐますからね。決して間違つた見方ではありますまい」

その通りです、とたれかは合意を示しながら

「併しそれは非常に女性的な視点ですな」

 暖簾の外で灯りが散らちらしてゐる。筋向ふのお店なのだらう。目の前に出された鯖の干物(目の前にあるのだから、肴として用意されたにちがひない)を毟つた。筋向ひのお店は花やかな灯りを使つてゐたかどうか。隣のたれかに訊かうかと思つたら、言葉が續いてゐて

「たとへば近所の八百屋で大根が廉いとして、バスで行くマーケットの大根がもつと廉いとしませう。廉といふのは、それも普段に食べるものが廉なのは、女性にとつてたいへんな値うちです」

「それはさうでせう」

「ところがバスに乗つてマーケットに行つて、その大根を買つたとして、それは本当に廉なのか。近所の八百屋ならバス代は掛からないのに」

それはそれとして、大根が廉なのが重要なのでせうな、(少なくとも)(一部の)女性にとつては。

「その通り」と隣のたれかは掌で弄んでゐたぐい呑みの中をぐつと干して「さういふのを八百屋のリアリズムと呼ぶのです」

と云つた。それから更に我われは(と手酌でお代りを注ぎながら)

「考へる為に考へ、議論の為に議論が出來る」

「それは自慢にならんですよ。目的と手段が一緒になつてゐる。それが赦されるとしたら、多分、哲學まで昇華しなくちやあいけない。古代の希臘人でもあるまいし」

「確かにその一面ははあります。栄光ある時代の希臘人に、知合ひはゐませんがね」と一応の同意を示しつつ「八百屋とマーケットの値段のちがひは大切ですが、バスでマーケットに行つて、紅茶でもしたためたら、マーケットで買ふ大根の値段はバス代と紅茶代の合計になつて仕舞ふ。これは道草が惡い方向に進んだ恰好の姿でせう」

我われはさうでなはい…詰り八百屋のリアリズムに捕はれず、ゆゑに道草を食はないと、さういふことを仰有るのでせうか。

「さうではないと思ひますよ」蓼をしがんでから「我われは随分と無駄…道草の意味ですがね、これは…をしてゐて、ただそれが、八百屋のリアリズムと異なつてゐる」

それだけのことです。尤もその

「それだけのこと、それだけのちがひは、我われと女性の間にある、深くて広い渠のやうでもあるのでせうが」

さうですかねと云ふ代り、何の話をしてゐるのか解らなくなり、解らなくなりつつ醉ひを感じた。感じながら、これもまた道草であるかと思ひ、思ひながら、さては呑んでゐたかもしれないと思つた。併し仮に呑んでゐたのなら、呑みながら隣席のたれかと話すことはあつても、その場合は不眞面目な莫迦話に徹するのが礼儀であるし、第一呑んでゐたら、こんなことは書けない。なので呑んだのは勘違ひである可能性がある。この手帖を書くといふ目的に対して、何か非常な遠廻りをした気分であつて、数行前にこれもまた道草と考へたのは、さういふ気分がもたらした結果なのだらうと思へる。不思議なのは同じ道草だつたら、妙齢の美女が登場したつてかまはないのに、ああいふ妙な理窟を捏ねるひとが現れたことで、蓼をしがんでゐたから、あのひとは寝待ノ親分だつたのかも知れない。