閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

282 オイル

 味噌漬け。

 醤油漬け。

 塩漬け。

 酢漬け。

 までは兎も角、油漬けの歴史は、ひどく浅さうな気がする。ああこれは我が國の場合。

 なに、ややこしい理由を考へる必要はなく、要するに油を絞り、或は精製する技術が拙劣だつたからに過ぎない。記憶にある限り、数百年くらゐ前までは油をつくりまた賣る権利は寺社が持つてゐて(實際は油商に許可を与へる形)、それだけ商ひになる特殊技術だつたと考へていい。さういふ贅沢品を漬けものに用ゐることが出來るものか。

 油漬けはおそらく地中海から欧州にかけてで發達したのではないか。“漬け”は要するに保存食なのだが、何に漬けるのがいいかと考へた時、(かれらにとつては)ありふれた油を使はうかと話が纏まつたところで、不思議とするには値しない。

 我われのご先祖が(そこそこ)(贅沢に)油を使へるまでになつたのは、江戸時代の半ば…後半以降だらうと思へる。徳川家康薩摩揚げを喰つて、東照大権現になつたぢやあないかと云はれるかも知れないが、それは贅沢な食べものだつたから茶人が天下人に供したのであつて、我がご先祖には関りがない。三河以來の禄の恩があるといふひとがゐる可能性も否定はしないとして、併しこの手帖の讀者諸嬢諸氏には縁はなからうとここでは決めつけておく。

 我が國で油漬けがそれなりに地位を得たのはいつ頃だらう。わたしが酒精に馴染み出したのは昭和の末期辺りからと記憶するが、わたしの周辺では当時、何々の油漬けがうまいといつた話は欠片も出なかつた。若い讀者諸嬢諸氏に気を遣ふと、インターネットも携帯電話もあらはれる前の時代だつたから、映画や音樂や飲食の情報は『Lマガジン』や『ぴあ』や『プレイガイド・ジャーナル』くらゐからしか得る方法がなかつた。後は友人知人からの“あすこはどうだつた”といふ噂話…今風に口コミと云つてもいいか…で、見方によつては

「それぢやあ油漬けが知られてゐなくても、止む事を得ないだらうさ」

となるだらうが、限られた情報の取捨撰択と試行錯誤の点に限ると(幸か不幸かは別として)、足を使ひお金を払ふ点で、シビアであつたと思へる。そこで引つ掛らなかつたのなら、(少なくともその頃の)知名度は低かつたと見て間違ひにはなるまい。

 ここで少し落ち着くと味噌漬けは味噌が、醤油漬けは醤油が、塩漬けと酢漬けは塩と酢が大事なのと同じくで、油漬けの油が例外にならない道理はない。そして我われは味噌と醤油と塩と酢には馴染んでゐても、油の味には馴染みが薄くて、さうなると油漬けが中々浸透しなかつた、しない理由は何となく想像がつく。

 そのくせ近年、食べてみると惡くない…訂正、侮れない油漬けにあふ機会があつて、油の風味を我われに適はす工夫なのか、保存または調理法の変化なのか、或はこちらが旨いと思へる幅が広くなつた所為か、結論に到るのは何とも六づかしい。併し油漬けが酒席の歓びを増したのは確實で、ことに癖の少ないオリーヴ油だと、葡萄酒はもとよりお酒にも似合ふ。我われは自國の料理調理を誇りつつ、油を巧妙に使つた地中海の文明に敬意を表するのを忘れてはならない。過日は偶々鰯だつたけれど、これが蛸でもきつと、満足に値しただらうことは疑ひの余地はない。

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