閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

303 しやぶ餅

 友人にKといふ男がゐて、食べものの好ききらひが烈しい。他人さまのことを煩く云へもしないのだが、Kは生魚全般が駄目と称してゐて、そのくせいつだつたか、鮪の油のところを旨さうに食べてゐたから

「話がちがふぢやあないか」

さう指摘したら

「かういふのは平気なのだ」

と遣り返してきた。かういふ好ききらひが何を意味するのかは考へない。

 三十年くらゐ前、そのKから突然電話があつた。何用かと思つて出たら、いきなり

「しやぶをやりに行かう」

と云ひ出したから大笑ひした。誤解されると困るから念の為に云ふと、しやぶしやぶを食べに行かうと意味。あの当時、何か間違つて、盗聴されてゐたら、えらい目にあひかねなかつた。

 併し薄切りの肉は嬉しくない。牛肉ならせめてローストビーフくらゐの厚さは慾しいもので、ああいふ薄さ…同じしやぶなら寧ろお餅の方がいい。しやぶ餅と呼ばれてゐる。實家では水炊きといふか寄せ鍋といふかの時に用意する。さつとくぐらせ、水菜や春菊や葱、或は鮭や鰤を包んだりして食べることもある。鰤はお刺身のを使ふので、序でに千六本の大根を湯がくのもいい。

 とは云ふものの、しやぶ餅が旨いのかと訊かれたらよく解らない。實家には毎年末、母親の友人がお餅を送つて下すつて、新潟にお住ひで、米どころのお餅は腰が靱くて歯応へと香りが高く、まつたくのところうまい。新潟酒の肴にしてもきつと似合ふ。

 ああいふお餅なら薄く切るか削るかしても旨からうかと思ふが、未だ試したことはない。牛肉同様ある程度の厚さが無いと、それ自体の味を感じるのは六づかしいとも考へられる。