閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

594 綻ビ咲キ舞ツテ散ル

 例によつて曖昧な話から。櫻の語源である。

 A.サ+クラ

 B.サク+ラ

 に大別される。

 

 A.の"サ"は植物…稲を指すらしい。稲の字には早稲でも判る通り、サ行の音がある。"クラ"は高御座(タカ ミ クラと訓む)の座。神聖なものが宿る場所くらゐの意味か。組合せには納得をするとして、何故あの花を示す言葉になつたのだらう。田植の時期と関係するのか知ら。

 

 B.は"咲く"に"ラ"だが、この"ラ"を複数形とする解釈には、少し違和感がある。複数形ならば、"我ら"や"誰々ら"の"ラ"だらうと思はれるが、かう書く場合、そこには本人が云へば謙譲、他人が云ふなら軽侮(但し露骨ではない)の語感が伴ふ。あの花に一種の神聖性を感じた人びとが、さういふ接尾辞を用ゐるとは考へにくい。寧ろ

 

 ひさかたのひかりのどけき春の日に

 しづ心なく花の散るらむ

 

などで使はれる"ラム"を援用したかと思ひたい。参考までに云ふと、"散るらむ"の現代語訳は、"(どうして)散つて仕舞ふのか知ら"くらゐだらう。その意味を考へれば、"咲くらむ"の転化もひとつの説になりはしまいか。尤も紀友則がこの歌で詠んだ花は櫻を意味するから、この一首が元になつたとは云はないけれど。

 

 ところで。我が國の花の地位は元々、梅が断然一ばんだつた。菅原道眞が梅花を愛したのはご承知の通り。それが道眞の好みだつたのは確かだが、一方に

 「梅を愛でる」

奈良朝文化の型があり、菅公もそのひとりであつたといふ見立ても成り立つ。仮にあの政治家と文人を兼ねた貴族が百年後に生れてゐれば

 「櫻を愛でる」

平安朝文化の型の一員になつてゐたと思はれる。この時期から、櫻の地位が急上昇したと考へたくなる。そこでもう少し調べてみると、前段の紀友則は九世紀半ばから十世紀初頭のひと。菅公とほぼ同年代を生きてゐるから、どうも具合が惡いね。仕方がない。もごもご誤魔化しておかう。

 

 文化の型に話を移すと、それを長きに巻かれる態度と笑ふのはをかしい。共有出來る文化の型が色濃くあつたから、現代の我われは梅花の綻びに頬を緩ませ、紅葉の樹々に手を拍てるのである。それを

 「型に嵌める」

と批判する方向はあるだらう。そこは否定しないが、たとへば百人一首は秀歌集からの撰り抜きであつて、その歌から珍しい風景の歓び方や、獨り寝の淋しがり方を教はらないのは勿体無いとわたしには思へる。花…櫻が綻び咲き舞つて散る姿を愛でるのはその中のひとつであり、さらに代表格でもある。さう考へれば、語源がA.でもB.でも、まあかまはんかなあといふ気分になつてくる。

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 そんなことを考へたのは、ある曇つた朝に見掛けた櫻花が綺麗で、"花散る朝の 曇り空"と浮んだのだが、前も後も續かなかつたのである。己の淺學菲才は承知してゐる積りだつたが、友則の歌を思ひ出して、成る程おれは、"愛でる型"を知らないのだ、と気が附いた。曇りの花を愛でられるだけ、ましだつたと云ふと、居直りになるだらうか。