手元にICF-8といふソニー製のラヂオがある。テレ・ヴィジョンを持たない…某放送局に配慮して云へば、常用のスマートフォンにもその機能は搭載されてゐない…わたしにとつて、ラヂオを欠かすわけにはゆかない。
尤も普段はサイマル・ラヂオ…"らじるらじる"と"radiko"の二種類を使つてゐる。タイム・ラグが生じるのと、権利の関係か、一部の放送が聴けないのは不満だが、止む事を得ない仕様だから、口を噤むことにする。
では何故ソニーのラヂオ機を持つてゐるのか。眞顔で云へば、災害か何かで通信が切れた時への備へである。乾電池で使へるのは、矢張り安心感がある。一方で時代遅れを気取るといふ不眞面目な樂みもある。
幼い頃…小學生くらゐの頃がわたしにもあつて(我ながら信じ難いが、事實はさうなのである)、その頃の朝はラヂオを聴くのが習慣だつた。卓子を置いた場所にテレ・ヴィジョンを置けなかつたといふ、現實的な事情もあつたのだらうが、それはさて措き、わたしがラヂオに馴染んだのはさういふ切つ掛けで、さう考へると手元にラヂオ機を置いてあるのは、追体験の用意の意味が大きいのかも知れない。
永井荷風はラヂオが嫌ひだつたらしい。断腸亭の頁を捲ると何箇所か、隣家のラヂオが八釜しいから散歩に出たと記してある。その荷風から十歳年下の内田百閒には、ラヂオを便利なもの(少くとも身の周りにあつても仕方がないもの)と受け止めてゐた気配があるが、これは世代より両先達の資質のちがひなのだらうと思ふ。
ここで我が國のラヂオ史を振り返ると、大正十四年の彌生廿三日に正式な放送が始つてゐる。僅か二年後には野球中継が實施され、その翌年には裕仁皇太子の即位禮を全國放送してゐる。米國で事實上のラヂオ放送が始つてから、たつた廿年でここまでやつてのけたのは、大したものと云つていい。
この頃の眞空管ラヂオ受信機が百廿円。断腸亭には賣笑婦を築地辺に呼んで祝儀は十円から廿円、枕代が廿円から卅円とあるから、加入の手間と費用を含めると、ラヂオはおそろしく高価だつたと想像出來る。荷風山人なら躊躇無く祝儀と枕代を弾むだらうな。百閒先生は借金で、買ふか買はぬか、考へるまで到らなかつたにちがひない。
思ふにラヂオは、不完全で面倒な、双方向のネットワークである。放送があつて、あるリスナーは葉書だの電話だので反応を示し、別のリスナーはそれを聴いて笑つたり呆れたりする。骨組みを見れば、自分が放送局になれないことを除いて、インターネットとほぼ同じではなからうか。似てゐると云つてもラヂオの開發時、インターネットなんて夢にも出ない技術だつたし、インターネットの黎明期にラヂオを意識した筈もないから、偶然の相似形に決まつてゐるけれども。
そこで疑問なのだが、そのインタラクティヴなメディアといふラヂオの性格は、日本獨特…でなくても、日本で目立つ特色なのだらうか。他國のラヂオ放送を聴いたことがないから、想像も附かない。辛うじてピーナツの漫画に、ライナスがどこかの番組に電話をしてゐる場面があつたのは記憶にあるが、その番組はラヂオだつたかどうか。もうひとつ、ロビン・ウィリアムスと思ふが、ディスク・ジョッキーで延々と喋り續ける映画があつた。いやあれはヴェトナム戰争の前線が舞台だつたし、そもそもが作り話だから、比較の対象にするのはをかしい。
たとへばヴェネツィアで。
たとへばイスタンブルで。
たとへばコパ・カバーナで。
お喋りと音樂と投稿と電話で成り立つラヂオ番組はあるのか知ら。ニュー・ヨークやパリ、或はロンドンなら、あつても不思議に思はないが…いやロンドンだと、ジョークとアイロニーが効果を發揮し過ぎるか。毒気はあくまでも香辛料だからいいので、塩と胡椒と辛子を、ロースト・ビーフの形に捏ね上げても、それは塩と胡椒と辛子の塊だもの。…まあそれは兎も角も。
では仮に昭和初年の日本にインタラクティヴな放送があつたとして…既に貧弱ながら電話回線は敷設されてゐたから、まつたく不可能ではなかつたらう…、番組は成り立つたかと云ふと、甚だ疑はしい。ラヂオを含めたメディアが活きるかどうかは、畢竟そこに関はる人びと(制作する側だけでなく使ふ側も含めて)次第であつて、ソニーが幾ら頑張つても、九十年前のご先祖には(失礼ながら)荷が勝ち過ぎたらうし、荷風翁の機嫌も惡いままにちがひない。我われは令和のラヂオのリスナーでよかつた。