記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。
アメリカは時々、莫迦ばかしいくらゐの大金を掛け、信じ難い手間暇を掛けて、とんちきな映画を撮る。ジェームズ・キャメロンがアーノルド・シュワルツェネッガーと組んだこの映画を、その一本…寧ろ代表格に挙げて、反論が出る心配はまあ、あるまい。
ハリー・タスカーは出張の多いセールスマンである。
家族は妻のヘレンと娘のディナ。残念ながら仲睦まじいとは云ひにくい。ふたりは夫であり父でもあるハリーを、生眞面目なだけで詰らない男と思つてゐる。かれは家族を溺愛してゐるのに。
妻も娘も知らないことがある。ハリーはセールスマンではなかつた。オメガ・セクターと呼ばれる組織に属する第一級のスパイ、それがかれの正体。出張の多いセールスマンの姿は、長期間の不在を誤魔化すのに具合がいいからだつた。今は中東のテロリストを追つてゐる。
ね。陳腐な設定でせう。なーにがオメガ・セクターだ、なんて、惡くちを叩きたくなる。
ま。さう云はずに、もちつと観てください。
ヘレンが浮気をしてゐるかも知れない。ふとした切つ掛けでさういふ疑念に駆られたハリーは、テロリストを追ふ一方で妻の動向を探る…組織を使つて。
この辺りで我われは、キャメロンが撮つてゐるのはスパイ映画でもアクション映画でもなく、スパイ・アクションのパロディなのだと気が附く。
だから主人公がスパイではなく探偵になつても、兇暴なテロリストや銃撃戰やハリアー戰闘機から發射されるミサイルが、狡猾な隠謀家やナイフや魚雷でもかまはないし、妻や娘に代つて幼馴染みや恋人が登場しても問題は無い。それで映画として成り立てば。
キャメロンは娯樂映画を成り立たせる條件を探り、國家の危機と家庭の危機をテロリズムで結びつけて並立させた。評論家を気取れば、ハリーの振る舞ひは國や任務の為に個人を圧し殺し續けたジェイムズ・ボンドへの揶揄、批判とも云へるのだが、この程度のこと、たれかが既に指摘してゐるにちがひない。それにこの手の映画は論評の為に観るより、でかいコップのコーラとポップ・コーンを両脇に置いて、キャメロンのやつ、こんな莫迦映画に一億ドルも遣ひやがつてと大笑ひするのが正しい樂み方だと思ふ。