記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。
テレ・ビジョン用アニメイション『伝説巨神イデオン』を編輯した"接触篇"と、それ以降を描く"発動篇"の二部構成になつてゐる。
ある星で、異星人同士が不幸に出会つた結果、かれらは相食み、戰ひ、死んでゆく。結末で再生は暗示されるものの、それは必ずしも(再生の後の)救済を意味せず、詰り何とも陰鬱と云ふ他に言葉がない。
映画としては丸で駄目と断定していい。
テレビ版では打ち切りの所為で、唐突で強引な…デウス・エクス・マキナのやうな…最終回になつたから、"落シ前ヲツケテヤル"といふ怨念じみた気分で作られれば、映画の体裁すら整はなくたつて、寧ろ当然だと思ふ。
但し"発動篇"の画は凄まじい。惨烈な戦闘場面。死の描冩(呆気なく、また残酷な)と、疲労と絶望の顔。死を隣に麺麭を囓る滑稽。業にとらはれた男の泣き言。愛人の死の怨みを叫ぶ聲。それらが滅亡と共に、最後の海へ繋がつてゆく。
見方次第だらうと念は押しつつ併し、映画が"整つた脚本と演出"に拠るとしたら(この見立てで大筋は正しい筈だ)、そもそも『The IDEON』に成り立つ余地はなかつた。異様を承知で云へば、テレビ版を最終回を(長いながい序章として)終る寸前まで観てから"発動篇"を観ることで、"イデオンといふ物語"は完成する…と考へる時、『The IDEON』は本來の意味での映画とは呼びかねる。呼びかねはするが、少くとも"発動篇"は一ぺん観て、損はしないとも思ふ。