頴娃君はわたしの友人であり、醉つぱらひ仲間であり、ニューナンブの構成員でもあり、『プラトンの洞窟』といふウェブログを持つてゐる。その中の[タンホイザー]に
https://lapislazuli.exblog.jp/28842024/
梅まつりの時だけは、お餅は肴に。
といふ一文がある。話はいきなり逸れるけれど、タンホイザーといへばリヒャルト・ワーグナーの歌劇で、更に確めると人名でもある。『ブリタニカ国際大百科事典(小項目事典)』と『世界大百科事典 第二版』、『世界大百科事典』を参照し、ざつと纏めると
◾️タンホイザー:Tannhäuser/Der Tannhäuser
(中高ドイツ語の綴りはTannhuser)
千二百年頃から千二百七十年頃(中高ドイツ語時代)、おそらくバイエルン地方の騎士の出身。ミンネゼンガー(中世騎士恋愛詩人)…といふが生涯については殆ど不明。
広く各地を旅行し、千二百九十八年から翌年にかけて、十字軍にも参加したと伝えへられる。
滑稽で冩實的なミンネザング(恋愛詩)、技巧を凝らした上品な舞踏歌、格言詩、十字軍歌などドイツ語による十六編の作品が残つてゐる。
どうも曖昧な人物像ですな。實在したのは確かとしても、親しみは感じにくい。尤もその名を高めたのは伝説の方である。ベーヌス山で官能的歓樂に耽つたかれは、魂の救済を求めてローマで罪を告白する。その告白に対し教皇ウルバヌス四世は
「この杖に花が咲くなら罪は宥されよう」
とすげなく追ひ返す。タンホイザーがローマを去つた後、その杖に花が咲き、教皇は大急ぎでタンホイザーを探したといふのがそれで、歌劇では最後に愛人の助けで神に赦される。…のだが、これだけなら、助平な男の我儘勝手な色懺悔ぢやあないかと思へてくるねえ。かう書くとワーグナーは激怒するにちがひないが。
不思議なのは、そのタンホイザーとお餅に何か関連があるのかといふ点で、調べた限り、糯米を蒸して搗くのは東アジアの食べものだから、関係があるとは思ひにくい。家庭に恵まれてゐる頴娃君が色懺悔をする必要は無いし、教皇猊下に含むところがあるとも考へられない。わたしの推測…想像の及ばない繋がりがあるかも知れず、この辺りはじつくり訊かなくてはなるまい。
勿論その折の肴はお餅にしたい。お餅が肴になるのかと云はれたら、どちらもお米出身なのだもの。適はない方がをかしい。お雑煮、豚汁、粕汁にさつと焼いたお餅を入れたお椀があれば、大御馳走といつてよく、梅まつりの日に限るのは寧ろ勿体無い。勿体無いのだが、梅まつりだの何だの、切つ掛けを得ないと食べにくいとも思ふ。別に珍しい食べものではないし、おそろしく高価でもないのに。
遡るとお餅を作るのは甚だ面倒であつた。蒸して搗く工程自体がさうだし、その為の設備や道具も複雑で
「けふの晩めしは餅を喰はう」
などと気樂に云へない食べものだつたのは間違ひない。特別な祝ひ事…詰りハレの日に村人総出で用意するのが精一杯だつたらう。痛々しさを感じてもいいが、村ノ鎮守ノ神サマノといふ賑々しさを思ふ方がもつといい。そのハレの日の食べものといふ感覚は、どうやら現代の我われにも残つてゐるらしい。お雑煮以外でお餅を食べる機会があるとしたら、おでんの餅巾着でなければ、ピザ風に焼いたつまみを居酒屋で註文する程度で、マーケットにあるパック入りのお餅を普段から買ふひとが少数派なのは、その(ささやかで間接的な)證拠と見ても間違ひではない。
現代のお餅はところで、色々の形をしてゐる。角餅丸餅は勿論、ごく薄く切られてゐたり、棒状になつてゐたりするのもあつて、使ひ方はお雑煮や善哉に限らない。焼いて大根おろしか砂糖醤油かきな粉で食べるだけでもなく、ハレの日といふ見方によつては一種の呪縛から脱け出せれば、幾らでも応用が利く筈かと思へる。ここで『私の食物誌』(吉田健一)に収められた[新潟の餅]から少し引くと
それに餅には餅の味と匂ひがある。これはカレイの匂ひや天ぷらの味のやうに強烈ではなくて寧ろ仄かなものであるが、それが餅を餅といふにしてゐて新潟の餅にはその味も匂ひもある。
と書いてある。この後のくだりで、新潟餅は菜つぱくらゐしか使はない東京風のお雑煮によく似合つて、お屠蘇の肴にもなると續くのだが、西洋式のソップに入れても旨さうな感じがされるし、そんなら葡萄酒にもあふと思へてくる。そこまで上等のお餅でなければ(吉田の云ふ"寧ろ仄かな味と匂ひ"を気にせず済めば)、棒状のお餅に色濃く仕上げた挽き肉とチーズのソースも似合ひさうで、どつしりした赤葡萄酒を呑りながら平らげたい。これなら梅まつりの日以外に食べても
「ハレぢやあないのにな」
古俗の心境を追体験せずに済むし、頴娃君も一応の納得を示すのではなからうか。ただベーヌス山で快樂に耽つたバイエルンのタンホイザーに、お餅を主題にしたミンネザングを詠はせられるかは判らない上、教皇猊下から無理難題を仰せつからずに済むのかどうかにも不安が残る。花云々といふのはアーモンドに関はるさうだから、砕いたアーモンドをソースに混ぜれば何とかなるか知ら。