閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

676 カレー・ライスの肉を論ず

 カレー・ライスには獸肉が欠かせない。

 魚介のカレー・ライスも旨いよといふ聲も聞こえなくはないし、一概にまづいと云ひもしないが、シー・フードの穏やかと繊細はカレー・ライスの力強さ、圧力には些か物足りなさを感じざるを得ない。

 牛肉。豚肉。鶏肉。羊肉。

 とんかつやチキンカツやハンバーグ、ミンチカツの類は措いて、ルーで煮込む條件なら、躊躇せずに牛肉を撰ぶ。ははあビーフ・カレーが好きなのだなと思はれるだらうし、間違ひとも云はないが、わたしとしては

 「カレー・ライスの獸肉と云へば牛が当然、当然でなければ基本ですよ。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏もさうお思ひになりませんか」

詰りカレー・ライスとビーフ・カレーは同じいのだと主張したい。ポークやチキン、マトンのカレー・ライス愛好家から激烈な反論が出るだらうか、出るだらうな。

 「インド…ヒンドゥーの広い範囲で牛は神聖動物なのだから、ビーフは罷りならん」

併しビーフ・カレーの愛好者だつて、猛烈な勢ひでやり返すにちがひなく

 「我が國のカレーはイギリス経由の西洋料理である。ロースト・ビーフの故郷からやつてきたカレーに、ビーフを用ゐない道理があらうか」

…いけませんね、かういふのは。ビーフのうまさは譲らないにせよ、ポークもチキンもマトンも旨い。さう考へて平和的にいきませう。

 

 わたしの"五大バイブル"の一冊に『檀流クッキング』があるのは、以前に触れたかも知れない。踏み込んで話すと時間が無くなるから、説明は省略する。世の中には書評なぞで確めなくても、買ふに値する本が何冊かはあるものだ。この本の中で檀一雄は、カレー・ライスの作り方を二度に渡り(西欧流とインド風)紹介してゐる。

 共通するのは薄く切つた大量の玉葱を炒めることと、ソップ乃至出汁に重きを置かないことで、別にこれは檀に限つた技法ではなささうである。固形のカレー・ルーを製造する會社が紹介する作り方でも、水を使ふですよと云つてゐる。日本料理一筋に何十年も庖丁を持ち續けたひとがカレー・ライスを作るとして、落ち着かないだらうな、きつと。うつかり出汁を引くところから始めるかも知れない。

 さうだ、もうひとつ、檀はどちらの調理法でも肉を指定してゐない共通点があつた。

 「さて、別のフライパンで、好みの肉をいためよう。豚の小間切れでも、三枚肉でも、牛肉のブツ切りでも、鶏でも、何でもよろしい」

のださうである。いいですな、鷹揚をこんな時に使はず、いつ使へばいいのか。檀の名誉の為に云ひ添へれば、マトンやラムについては同じ本の、"羊の肉のシャブシャブ"と"ジンギスカン鍋"で丹念に触れてゐる。あの放浪癖の料理好き兼小説家が羊肉に目を瞑る筈はなかつた。

 

 カレー・ライス…ではなかつた、カレー・ライスの肉の話に戻りませうか。冒頭で触れまた措いたが、カレー・ライスの種ものに肉料理を使ふ方法がある。

 正直に云ふと、とんかつの圧勝だと思ふ。チキンやビーフのカツレツがまづいわけではないし、ミンチカツやハンバーグだつて、出てくれば嬉しいのは勿論。或はステイクや牛丼の頭が乗つてゐるのも宜しい。とは云へ相手がカレー・ライスであれば

 「とんかつ以外の撰択肢があらうか」

と反語的に考へるひとが大半…いやきつと過半数に決つてゐる。とわたしは確信してゐる。英國渡りのカレー・ライスが日本獨自の大完成に到つたのが、とんかつを乗せたカレー・ライスことカツカレーだと思ふのだが、カツカレーは機会を改め、暑苦しく論じたいので、ここでは踏み込まない。

 さうなると鶏肉の分が些か惡くなる。と思つたのだが、確かにルーで煮込んだり、カツレツを乗せたりだと、鶏肉の味がカレー・ライスに押し込まれる。だつたら押し込まれなければいいことになりますな。最も簡便な…家のカレー・ライスで直ぐ實行するなら、焼き鳥のたれが宜しい。なーに、マーケットの惣菜賣場で買へば済む。串から抜いて、好み次第でたれを加へ、甘辛さを調へてもいい。焼き鳥の肉は小さいなあと思ふひとには照焼きがある。鶏肉は全般、淡泊な傾向があるので、多少の濃厚を入れれば、カレー・ライスに押し込まれなくなる。

 

 詰り使ひ方次第でカレー・ライスの獸肉は何を撰んでもうまいといふことになる。いやあ、芽出度い。芽出度いが矢張りカレー・ライス党ビーフ派の立場として、最後にもう一度檀の好著に登場願はう。牛すね肉をゆつくり煮込む方法が紹介してあつて、六づかしくも何ともない。すね肉の塊を大きなソップ鍋に入れ

 「水をタップリと張って、ニンニクの塊を五、六粒、ショウガを一、二個、あとはネギの青いところでも五、六本投げ込むだけ」

で、後はあくを丹念に取り、日がな一日、気長に煮る。このソップをカレーに転用し、よく煮えた肉塊は掬つてルーの種にも出來るといふ。勿論カレーだけでなく、シチューやラーメンに使ひ、ソップの上澄みで賽の目に切つた馬鈴薯や人参や大根を煮て"申し分なくおいしい"とあるから、要するに万能ソップ兼おかずの素なのだが、これを使へばビーフ・カレーは更に旨く豪華となるに相違無いし、ビーフ・イーター即ち英國人もきつと満足する。ビーフを旗印にした日英同盟なら、他國から睨まれる心配もない。