閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1154 なずんだ呑み屋の手帖

 毎年、この時期に入ると、來年の手帖の話をしたくなる。勿論、紙の手帖。手帖賣場に様々な色、判型が並ぶのを目にすると、昂奮を覚える。棚からあれこれ手に取り、頁を捲つて中を確めては戻す。この繰返しが樂い。

 月曜日始り。

 見開き一週間。

 土日と平日が同じ広さ。

 横罫線か方眼罫線。

 好みを挙げるなら、ざつとこんなところ。と云つたら

 「すりやあ、当り前の仕様ですなあ」

 「なら何を撰んでもかまはんでせう」

など冷かされさうで、叉それはさうだとも思ふのだが、ラパーの手触りや色合ひ、レイアウトのちがひは、案外なほどにある。何を書きつけるか、或は持ち出し方で、そのちがひが使ひ勝手に影響するのは、云ふまでもない。

 この十年くらゐ、高橋書店製を継續して使つてゐる。満点を差し上げはしないけれど、辛抱出來るくらゐには纏つてゐる。さうしてゐる間に、手帖に求める一応の基準が、高橋書店になつてしまつた。我ながら意外に思ふ。何にせよ、ひとつの基準を持てるのは、惡いことではないけれども。

 高橋書店に近しいのは、NOLTYに幾つか、見られる。似た造りの二冊を較べると、おほむねNOLTYが、多少…数百円くらゐ割高で、ただその差額を感じるほど、ちがひはないと思へる。だから使つたことがない。

 まつたく異つたのはMoleskine(モレスキンなのか、モールスキンなのか)で、頑丈な赤の表紙に惹かれ、こつちは一年だけ使つた。ヘミングウェイの『移動祝祭日』の影響もあつたと思ふ。巴里のカフェ、よく削つた鉛筆を手に、小説の下書きをするのがMoleskineで、そのくだりに痺れたのだ。使ひにくかつた。きつと巴里のカフェで、白葡萄酒と生牡蠣を註文出來る、文豪向けの手帖だつたのだらう。

 葡萄酒と牡蠣は兎も角、巴里と文豪には無縁の男であるところの私である。手帖だつて、そつちを見なくともいい。そこで話が高橋書店に戻つてきて、併し周囲に使つてゐるひとを見たためしがない。かう書くと語弊があるから、紙の手帖を使ふひとを、目にする機會が殆どないと云ひなほさう。考へられる理由としては

 第一に記憶してゐるから、手帖を必要としない。

 第二にスマートフォンなどで、アプリケイションを使ふから、紙を使ふ必要がない。

 この辺りが浮んでくる。更に意地惡く、そもそも書いたり覚えたりを要するほど、予定も記録も持合せがないことも、考へられなくはないが、流石にこれは捻ねた見立てと、厭な顔をされるだらうか。尤も我が身を翻るに、デジタルカメラと紙の手帖は、脳味噌の外の記憶装置といふ位置附けになつてゐるから、えらさうな態度を取れたものではない。

 さて。手帖が私にとつて、記憶の代りである以上、最初に求めるのは、安定してゐることで、AndroidWindowsのやうに、バージョンが変るたび、インタフェイスがちがつてくるのは、こまるのだ。あれはまつたく不思議な現象で、あの辺の新しいバージョンは、前バージョンを否定しないと、成り立たないのか知ら。使ふ側を莫迦にしてゐると思ふ。

 戻した筈の話が、ちがふ方向に逸れさうだ。

 手帖界の慣例慣習がどうだかは知らないが、こちらの印象を云ふと、随分と保守的に感じられる。一度決めたフォーマット…型番は大事に抱へ、新しいフォーマットは、ちがふ型番で出してくる。いいかどうかは別として、リシェルやフェルテ…どちらも高橋書店の型番である…の字を目にして

 「ああ。大体こんなフォーマットだつたな」

と浮ぶのは有難い。それをいきなり"ver.2025"とか銘打ち、変更を加へられると、困惑してしまふ。わかい…それこそ廿歳、卅歳の頃は、毎年異なる手帖を撰ぶのも、娯樂みたいな面があつたけれど、これが齢を経るといふことなのだな。

 かういつた事情乃至屁理窟を背景に、令和七年の手帖も、高橋書店に任さうかと思ふ。

 「保守的な態度だねえ」

我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は笑ふかも知れず、それはまあ、さうなのだが、同じ手帖を使ひ續けるのは、なずんだ呑み屋に通ふやうな安心感がある。時間の降り積りに譬へたら、気障に過ぎるだらうか。