閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

777 シヤワセのハムカツ

 ハムカツは正しいんである。

 これはまったき世界の眞實。

 何と云っても旨いんだから。

 

 正直、ごはんのおかずにはなりにくい。

 おやつに食べるのも些か、無理がある。

 併し麦酒や酎ハイの傍にあると、こんなに嬉しいお摘みも見当るまいと思えてくる。

 とんかつやミンチカツでは、ここまで昂奮しない。

 いや正確には、とんかつやミンチカツと異なる昂奮を感じるので、何がどう異なる昂奮なのか。

 

 ハムがうまいからではない。

 とは確實に云える。上等のハムなら揚げるまでもなく、ざっと焼けば済む。元々がそういう食べもの…そう考える時

 (揚げたのは、あんまり上等とは云えないハムを平らげる為の、工夫だったのか)

と疑念が浮ぶ。我ながら意地の惡い想像だなあ。

 根拠とまでは云わないが、想像の種はあって、我われのご先祖には、獸肉の加工や保存に執着しなかった過去がある。玄米や雑穀、少しの野菜に大豆と魚介があれば(宮澤賢治みたいだね)、食卓は成り立ったから、獸肉を手に入れ、血を抜き、塩を揉みこんで、燻してと、どうこうする必然が薄かったにちがいない。贅沢と云えば贅沢である。

 

 ところでハムを揚げることを、ぜんたいたれが考えついたものか。ハムカツ史を調べる手間を惜しんだから、よく判らない。買い置いたのを忘れていて、誤魔化す為だったのか、とんかつの予定だったのに、豚肉が足りなかったから、代用したのか。どうであれ

 「よし、これからハムを揚げるぞ」

と積極的な気分ではなかった気がする。たとえば町中の精肉屋で、賣れ残りのハムを棄てるのが勿体無いから、コロッケを揚げる序でに衣をつけてみたとか、そういう逸話が(實際にあるのかまでは知りませんよ)寧ろ似つかわしい。

 

 子供の贅沢な買い食い。

 お父さんの晩酌のお供。

 

 その辺りから、ハムカツの歴史は幕を開けたと思いたい。それで凝り性の肉屋の親仁が、ハムの種類だの、衣の具合だの、油だのと調えていったにちがいない。尤もそれは、とんかつに匹敵する豪華を目指した工夫ではなく、手持ちの材料と環境で、廉に素早く旨いのを作る方向…ライバルに想定されたのは、馬鈴薯のコロッケか…だった筈である。

 となったら、気になるのは(安)酒場の品書きにハムカツの文字が並ぶようになったのは、一体いつ頃だろうということで、例によってさっぱり判らない。廿年くらい前には無かったか、稀だつたとは思う。当時の胃袋には、がっしり食べられる力があつたから、目に入らなかったとも考えられる。要するにハムカツが目立ってきた(と感じてきた)のは近々数年のことで、世のハムカツ愛好家には、注意力散漫を指摘されるかも知れない。

 食べると果してうまい。話がここで(やっと)冒頭に戻り、漠然と持っていた安ハムをやれた油で揚げた、しつっこいだけの板っきれ、という印象は、誤解だったか思い込みだったか、それとも洗練を経た結果なのか、兎にも角にも払拭されたのは確かである。やっと愛好家諸氏に追いつけたわけで、芽出度い話じゃあありませんか。

 ところでとんかつやミンチカツ、或はコロッケでは、揚げたてなら、何もつけずに食べるのが最良なのは、今さら云うまでもない。併しハムカツに限っては事情が異なる。

 ウスター・ソースは、最初から、たっぷり。

 それから、辛子を乗せる。

 熱くて甘辛くて刺戟的になったところで、衣の潤びたのとハムの歯触りを纏め、ぐっと囓る。衣に染みたソースと辛子が渾然となったところで、麦酒を呷るのが一ばん旨くハムカツを愉しむ順序だと思う。

 實のところ、併しこれで旨いのは、ハムではなく衣の方なんである。調理化學的にはどうなのか知らないが、揚げるという工程で、衣がハムの味を吸収するのではなかろうか。別にそれはハムの不名誉ではなく(香りと歯応えの基はハムに依存するもの)、寧ろ組合せが新しいひとつの眞實を生み、その中で名誉ある地位を占めたと考えたい。それ即ち、シヤワセのハムカツ。