閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1270 胸痛碌(3)検診に就て

 先日、退院以來初めて、病院に行つた。入院中に小沼先生が予約を入れてくれて

 「必ず、來てください」

口調はやはらかいけれど、断乎とした態度の御達し。勿論こちらにその御達しを拒む、或はさぼる道理はない。

 それで病院に行く前、小沼先生に何を訊かうか、考へた。退院してからのからだの具合は、記録を取つてある。まあ走り書き程度と云へば、その通りだけれど、出來るだけその場で書いた走り書きだから、記憶よりはあてになる。

 

・(特に)起きぬけに感じる胸の不快感圧迫感の要因。

・醤油や味噌、七味唐辛子の味が、(何となく)頼りなく感じられること。

・腹候、便通の具合状態…に関しても訊きたいが、この稿で具体的な文字にするのは流石に控へる。

 

 藥の(副)作用なのか、ステントを入れた影響なのか、別の事情要因と依るものか、順不同で、上の点は確めたい。

 それから(前回に、ちと触れたが)、ニコチンレスの煙草風製品の利用の可否…念を押すとこれは、"駄目に決つてゐるでせう"と云はれるのが前提である…も、訊いておきたい。さてでは、出掛けるとしませうか。

 

 午前九時に陋屋を出た。予約時刻は十時。かなり、余裕を見てゐる。自分の足で行くのは初めてだから…入院時は救急車だつたし、退院の時はタキシを奢つた…、どれくらゐの時間が掛かるか、判らなかつた所為である。

 地下鐵から旧國鐵に乗継ぎ、徒歩でざつと四十分。

 一階に設置された機械に、診察券をはふり込めば、受付は自動的に終り。診察前に採血、心電図、レントゲンがあるさうで、順に済ました。都度、本人確認で、名前と生年月日が求められるが、心電図を採つてくれるお医者さまが

 「あら。わたしとおンなし誕生日…生れ年まで」

かろく笑ひ聲を立てた。ははあ、珍しいこともありますね。曖昧に笑つた。

 待合室は混雑してゐる。小沼先生は循環器内科だが、それ以外の内科系を受診する患者も、同じ場所で待つてゐる。たれもかれも、おとなしい。私もおとなしく座つた。

 診察の予約時間帯は、午前十時からの半時間。診察室に入つたのは併し、十一時前だつた。色々のお客…ではなく、患者を相手にするのだ、予定が遅れるのは織り込んである。

 「調子は、如何ですか」

病変や副作用や、さういふのは判らないけれど、兎にも角にも、気になつたことを云ひます、と順を追つた。

 

・先づ胸の不快感圧迫感に就て。

 端的且つあつさり、"だつて、心筋梗塞を起して、一ヶ月ですからね"…確かにその通りである。身体があれこれ驚いたとしても、不思議ではない。短時間で収まるならよし。継續するなら、救急でも入院でも、と云はれた。

・味覚と便通に就て。

 "どちらも関はるのは、心臓と別の部位ですね"…詰り藥やステントが、トリガーになるとは、考へにくい。但し身体がストレスを感じてゐるとしたら、何かしらの影響が出る可能性はあるでせう…といふことらしい。

 

 「(身体が)ナーバス…神経質になつてゐると、(服藥などと直結しない)症状があるかも知れないですね」

 成る程。生れて初めての心筋梗塞から一ヶ月、退院から三週間余。気になると云へば、身体のあちこちで感じることは全部、気になりはした。してゐる。すりやあ意図しない心理的な負荷が大きくあつても、仕方がないと思へた。その"心理的な負荷"に混ぜ込んで、ニコチンレス製品への、小沼先生の意見を訊いた。

 「先づ(判つてゐますね)煙草は断然、駄目です。ステントが詰つたら、命取りになりますから」

さう念を押された。それからこつちの質問には、詳しく知らないので、自分たちが使つてゐる参考資料に基づいてとなりますが…さう前置きしつつ

 「推奨は出來ない、ことになりますね」

 「何が入つてゐるか、判りませんし」

 「口寂しいなら、禁煙ガムの方が、いいと思ひますよ」

 非常に慎重ながら、はつきり否定的と云つていい。とは云へ、もう少し厳しい言がかへされると思つてゐたから、この点は意外だつた。詳しく判らないことへの慎重さは、まことにサイエンティフィックな態度ではありませんか。

 併しもつと意外だつたのは

 「煙草を喫するなら、お酒の方が百倍、ましです」

と云はれたことで、小沼先生の資料によると、アルコール度数五パーセントの麦酒に換算して、大体一日千五百ミリリットルくらゐなら、許容の範囲に入るといふ。

 あくまでも目安の話ですからね。毎日それだけ呑んだ揚げ句、身体を壊したところで、先生の責にならないことは、強く念を押しておかう。

 正直なところ、かなり安心をした。煙草は切り捨ててもまだ、かまはない、止む事を得ないが、お酒…酒精にまで、停止(ここは"チヤウジ"と訓んでもらひませう)の御触れを出されては堪らない。私の余命なんぞ、大して長くはない筈としても、それでお酒まで止めたいとは思へないもの。

 安心した顔つきになつたの露骨だつたのか、小沼先生は苦笑ひを浮べながら、藥はこれまでの四種に加へ、消化器系のを一種、出しますねと云つた。味覚と便通へ、一応の対処をしておくらしい。服用期間は七週間。長いなあと思つたら

 「これで大きな変化(惡化の意である)がなければ、藥をひとつ、減らします」

との判断かあつてのこと。それで次回の検診日は決つた。診察の代金と藥の代金の合計が、中々な額になつたから、心筋梗塞が起きなければ、これがあつたら、ちよいと贅沢に呑めたのになあと、残念な心持ちになつた。

 帰りに天玉蕎麦を啜つた。

 平らげてから、もちつと歩いたら、もちつと好みの天玉蕎麦を出す、安蕎麦屋があつたのを思ひだした。次回の検診で異常が見つからなければ、その時の帰りには、そつちに行かうと思つた。