閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1197 感想文~ウルトラマンアークを観て

 予め云ふと、この稿は『ウルトラマンアーク』全廿五話、それから全三回の特別総集篇を見てゐることを前提に書きます。所謂"ネタバレ"には一切、気を遣ひませんので、我が未視聴の讀者諸嬢諸氏("これからゆつくり観る"ひとも含めて)には、念を押しておきますよ。

 

 率直に最初の印象は"随分、とつ散らかつたなあ"だつた。

 今回、メインの監督を務めた辻本貴則は、どうも『帰ってきたウルトラマン』や『ウルトラマンA』が大好きらしい。タイトルの背景に、それを聯想さす効果を施し、各話タイトルのフォントもそれつぽく、コマーシャル前にロゴを入れ、挙げ句、第一話ではラストに、ユウマ(かれが主人公)が"おーい"と手を振り、戻つてくる場面を作つた。少年の頃、再放送で散々見た記憶が甦り

 (ひよつとして辻本監督は、"昭和ウルトラ"のパロディを展開したいのか)

と勘違ひするくらゐだつた。その第一話は冒頭、ウルトラマンが怪獸と戰ふところから始まる。主人公が何かしらの切つ掛けで、ウルトラマンになる過程をいきなり吹つ飛ばしてゐる。叉第一話のメインを飾る怪獸ジャゴンと戰ふ場面は、後にバディとなるシュウの撮影に紐附け、三分超の長回し(ブライアン・デ・パルマ聯想させた)まで観せてくれた。

 「ウルトラマンは三分間しか戰へない」

とは實のところ、アークでは明言されてゐない設定だが、さういふ視聴者の思ひこみを、(撮影)時間の経過の形で見せたのは大した工夫だつたと思ふ。少くとも近年のウルトラマンで、かういふ演出はなされなかつた筈で、単純なパロディ趣味でないと判つた。もう少しその第一話に就て触れると、最後の場面でシュウが、いつか(アークに)お礼を云はねばならないと呟く。"ウルトラマンアーク"の名前はここで生れ、アークへのお礼は最終回の最後で果される。

 

 序盤三回は時系列が意図的に乱されてゐた。第二話では、これも"昭和ウルトラ"で見掛けた、怪獸を信じる少年と、信じない大人(土地の開發者であり、少年の父親でもある)の構図が描かれる。併し大人には、無理解や身勝手な都合の押しつけではなく

 「さうしなくてはならない理由」

がある面を見せ、少年は父を判り、父は少年を護る。何と云ふか、温みのある脚本だつた。おそらくこの第二話が、アーク全体の基調を示してゐて、辻本は

 (きつと、ひとは行きちがひで対立する時もあるけれど、互ひの理解に辿り着ける)

ことを大きな方向として意図したのではないか知ら。

 續く第三話が、時系列上では最もふるい。十六年前、少年だつたユウマが、怪獸モノゲロスの襲來に巻き込まれ、両親を失ふ。モノゲロスを追ふ巨人-第一話でアークと呼ばれるに到る-が、辛うじてかれを救ふ。成る程、ベムラーを追つてゐた初代のウルトラマンが、ハヤタを事故死さしたくだりを、かう見せるのだな。感心してから、不思議を感じた。

 第一話で、謎の巨人…アークが姿を現したのは、三ヶ月前と言明されてゐる。では十六年間、巨人は何をしてゐたのだらう。そもそもモノゲロスが地球に來た理由は何で、アークはどんな事情があつて、怪獸を追つてゐたのだらう。叉物語の舞台、星元市に残されたモノホーンとは一体。物語世界の骨格を見せつつ、謎を散り嵌めた緩かな三部作で、私はすつかり夢中になつた。

 

 ここで我らが主人公であるユウマの立場に就て触れる。かれの所属はSKIPの星元市分所。専門は怪獸の生態學。三ヶ月前、任に就いた計りの新人である。分所は伴所長と先輩のリンさん、それからロボットのユピーで構成されてゐる。それからシュウが、第一話の終りに軍属のまま、分所に出向、常駐する形となる。

 かれらの主な任務は怪獸災害に関はる調査と、發災時の避難誘導。前作『ウルトラマンブレーザー』でのSKaRDのやうな、軍隊の一部ではない。そつちは別の組織が受け持つてゐて、設定としてはかなり特殊に思へる。戰闘機だのロボットだのの、賑かで派手なアクションを見せられない。一ばん近さうなのは、『ウルトラマン』の科特隊だらうが、あちらにはジェットビートルやイデ隊員の超發明があつたからなあ。

 

 詰りお話の見せ方は、これまでの文法と異ならざるを得なくなる。更にユウマとアークの関係と不思議を避けて通れないのは当然で

 (さてこの辺りを、どう織りあげるのだらう)

些か意地惡な興味を抱いたと、白状しておかう。それで冒頭に戻つて、全話を観た後、最初に

 (随分、とつ散らかつてしまつたなあ)

と思つた。但し念を押す意味で云つておくと、ひとつひとつの話は、實に樂めた。

 

 巨大鼠や茸狩り宇宙人。

 顔の解らない遠い星の友。

 實体を持たない怪獸と珈琲好きの宇宙侍。

 願望を叶へる赤い玉。

 

 ことに第廿二話で描かれた、不安を搔き消す白い仮面と柱は、『ウルトラQ』や『ウルトラセブン』を聯想させる、"クラッシックなウルトラの…或は円谷の怪奇"であつて(極論すればこの話は、アークが登場しなくても成り立つた)、よくもまあ、令和の世の中で、かういふ話を作つたよ。辻本の狙ひにはおそらく

 「どのエピソードを観ても、面白い」

ことがあつた筈で、たとへば全部をスラップスティックに振りきつた第八話は、その典型に思はれる。併しアーク全体を見渡した時、その狙ひ-方針が適切だつたかどうか。徐々に明かとなるアークの銀河に迫る危機、その対処が地球に及ぼす危機…物語を貫く軸の輪郭が、ぼやけたといふか、曖昧になつたといふか、そんな風に感じられもした。遡つて『ウルトラマントリガー』で、軸の部分に重心を置きすぎ、単發では樂みにくかつたのと、対照的と云へばいいだらうか。

 アークでさう感じた理由は何だらう、と首を傾げるまでもない。全廿五話だと、軸と単發のバランスを取るには、少かつたからだと思ふ。放送話数に撮影や放送の事情があることくらゐ、幾ら私が鈍くたつて判る。併しその事情は内々のそれであつて、一介の視聴者としては

 (もう一クールあれば、ヴァラエティに富んだ作風を保ちながら、然も本筋までじつくり描けたのに)

ことを惜しむ。中でも僅かな出演にも関らず、敵役のスイードを演じた佐藤江梨子が見せた異様な存在感は、もつとたつぷり味はひたかつた。因みに云ふ。全卅九話なら、よく出來た構成の『ウルトラマンマックス』と同じになる。

 

 その一方、限られた話数なのに、よくぞここまでと讚辞を贈りたい気持ちもある。第五話と第廿話で伴所長に、第九話と第廿一話ではリンさんに、スポットをあてたのは、防衛軍の派手な活躍を描冩出來ないことを逆手に取つた大した手腕だつたし(『ウルトラマントリガー』と『ウルトラマンデッカー』では、残念ながら、その踏み込みが足りなかつた)、全篇を通したユウマとシュウの…一歩たがへれば、同性愛に結びつきさうな…友情も、私を高揚さすに十分だつた。叉アークと対立する一派を、単純な善惡-円谷風に云へば、"光と闇"の衝突に落しこまなかつたのは、辻本と構成を担当した継田淳のお手柄と云つていい。何より改めて云ふのだが

 「ひと…地球人も宇宙人も…は時に行きちがひ、或は間違ひを起す。ぶつかることだつてある。それでもひとは、最後に必ず解りあへる」

点を最後まで貫き、その姿勢は最終回の最後の場面まで、温みを感じさせる脚本と演出に繋つていつた。美事と手を拍つ他にない。その最終回は、アークと共に旅立つたユウマの帰還を思はせる場面で幕を降した。いや旅立ちで降りた幕が、再び上がつた場面といふべきで、アークとSKIPの物語は、ここから始るのだ。