閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

048 本の話~靄の奥へと

空海の風景

司馬遼太郎/中公文庫

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   寶龜4年を西暦になほすと774年。8世紀末の生れである。今から云ふと12世紀半ほど前。承和2年…西暦835年歿。日本史で俯瞰すると、奈良から長岡を経て山城へと都が移りつつある頃で、我われの目からすれば中世が始まるかどうかといつた時代。要するに漠然としてゐる。空海はさういふ漠然とした時代の人物で、司馬遼太郎がよくもまあ、取り上げたものだ。よくもまあと呟きたくなるのは司馬が史料と地図を頻用しつつ書く小説家だからで、この小説が

 

「僧空海がうまれた讃岐のくにというのは、茅渟の海をへだてて畿内に接している。野がひろく、山がとびきりひくい」

 

と始まるのでも判る。因みに茅渟は“ちぬ”と讀む。現代とは地形が随分と異なつてはゐるが、ざつと大坂湾を指すと考へればいい。今では殆ど用ゐない古語を使つたのは、1000年以上の時間を遡る小説の冒頭に相応しい。司馬のいはば地理好みは中盤に描かれる長安の町並みや、寺門へ到る道すぢの姿でも明らかで、流石『街道をゆく』の筆者だなあと思はされる。

 尤も史料となると甚だ心許ない。これを司馬の責任にするのが酷な態度なのは念を押すまでもない。数が少ない上、信憑性にも疑念(最初から嘘…でなければ虚飾や後世の改竄)が残るもの。そこで考へられるのは、だつたら小説なのだと居直ることで、小説はがんらい、さういふものだとつけ加へたつてかまはない。ところがこの小説家はその点について

 

「こうも想像を抑制していては小説というものは成立しがたいが(中略)かれのような歴史的実在に対しては想像を抑制するほうが後世の節度であるようにもおもわれ、むしろ想像を抑制するほうが早やばやと空海のそばに到達できるということもまれに」

 

有り得ると、ひどく遠慮がちな…あからさまに云へば臆病な態度で臨んでゐる。いち讀者としては、すりやあないよと云ひたくもなつてくるが、かと云つて存分に想像を働かせると、とめどがなくなることにもなりかねない。司馬の書き方は迷ひにまよつた挙げ句の結果なのだらう。但しそれが適切だつたかどうか。地形の描冩や史料に基づいた推測はしつかりしてゐながら、肝腎の空海については慎重に断定を避け、“~と思はれる”や“~と考へたい”、或は“~と見る方が(空海に)似合ひさうな気がする”と書く。その足取りは重く、躊躇ひがちで、時に不安げな表情でもあつて、讀者(わたしのことだ)まで不安になつて仕舞ふ。

 

 ここで浮ぶのは、司馬遼太郎は何故かういふ人物、時代を題材に撰んだのだらうといふ疑問。かれにとつて、もつと書き易い人物があり、時代があつたのではないか知ら。

 

 この本を何度か讀み返し(詰り讀み返しに値するだけの本なのだが)、讀み返しつつ感じたのはさういふ不思議で、最近になつてやうやく、これは司馬の奇矯好みではないかと気がついた。たとへば斎藤道三、たとへば吉田松陰高杉晋作、たとへば土方歳三、たとへば秋山好古と眞之の兄弟。最後の例には正岡子規を加へてもいいだらうか。いづれもその時代…その時代の常識とされてゐる範疇から、本人がさう意識してゐたかどうかは別として、微妙にまたは大きく外れた人物である。さういふ人物に対して司馬の筆は(時に過剰かと思へるほど)優しい。ここで云ひ添へる必要があると思ふのは、かれの小説は所謂“公平な歴史感”で成り立つてはゐないことで、一ばん判り易い例を挙げれば『坂の上の雲』で、半ば奇人ながらある種の天才と描かれた児玉源太郎と、爪の先まで無能扱ひされた乃木希典の描冩を讀み較べればいい。因みに云ふと児玉は日露戰争の翌年に、精根尽き果てたやうに死ぬ。ひとつ事をやり尽し、命果てた人物(さういふ人物、人生は外…詰りその時代の常識から見れば奇矯に映るだらう)を司馬はことの外、好んだやうに思はれて、余りにも有名だから引用は省くけれど、『竜馬がゆく』の末尾はそれをはつきりと示してゐる。さう考へると、司馬が空海を取り上げたいと思つた理由が何となく想像出來る。ちよつとした田舎に足を運ぶと、或はこの温泉はお大師さまが掘つたとか、或はこの池はお大師さまが杖をついた時に湧き出たとか、さういふ伝説を無闇に見掛ける。その大半…といふよりほぼすべては後年の高野聖が撒き散らしたいんちきなのに疑念の余地はないのだが、さう断定しきれない、断定するのに些かの躊躇を感じるのが空海といふひとでもある。かれの背後にはある種の神秘性、怪物めいた超人性がちらちらしてゐて、その印象は密教にほぼ直接結びつく。そこに時間の靄、霞がかかると、あの入唐僧の姿は幻灯機で映された影画のやうになる。司馬遼太郎といふ生眞面目な小説家にとつては、奇怪としか思へなかつたのではないか。然も空海は多藝…書や文章、建築、土木…に恵まれながら、その生涯は密一乗に捧げきられ、ひとつことを成し遂げて死んだ。目に視える日本史で、かういふ単純で苛烈、徹底的で強烈な人物は恐らく最初だらうし、もしかすると絶後かも知れない。奇矯好みの司馬がかういふ人物に興味をそそられないと考へる方が寧ろ不思議であらう。史料から事實を抽り出し、空白と曖昧を(合理的な)想像で埋める式で書く歴史小説家が、空海と平安初期、佛教や印度思想といふ、史料では掴み難いなにごとかに惹かれ、書いたのは、作家個人にとつて幸せだつたかは判らない(本人は気に入りだつたさうだが)作中、空海といふ人物や密教といふ思想について、具体的な、または明快な描冩は遂に見当らず、それらは孔雀が何故明王にまで出世したのかを考へる風な、欠片を示すに留まつてゐる。我われは示された欠片を並べ繋げ、或は組立て直しつつ、作者と共に惑はなくてはならない。併し讀後、漠然とではあつても、讀者それぞれの中で、靄の奥に佇む僧の姿は浮んでくる筈で、その曖昧さを寧ろ歴史そのものと見立てるのは、著者の本意に添はない態度だらうか。