閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1342 或日の晝に、突然に

 某日、晝。

 不意に立喰ひ蕎麦を啜りたくなつた。

 それも五百円以下が望ましく思つた。

 何故さうなつたのかは判らないけれど、かういふのを我慢するのは六つかしい。

 浮んだのは春菊の天麩羅蕎麦。

 春菊の天麩羅が浮んだ理由も、よく判らない。繰返すと不意なので、我慢は六つかしい。たちが惡いなあ。

 尤も私が仕事で行く新宿近辺で、廉な立喰ひ蕎麦屋は中々見当らない。ひと驛動けばぐつと安くなるから、きつと土地柄の所為なのだらうな。云つては何だが、高々立喰ひ蕎麦の春菊天麩羅なのに。

 こまつたなあと思つてゐたら、一軒の立喰ひ蕎麦屋が目に入つた。外にある品書きを見ると、春菊天蕎麦がある。その価四百九十円。食べない理由はあるまい。

 出てきたのは見てのとほり。

 茹でおきの蕎麦はちと、軟らかに過ぎ、春菊は掻き揚げのやうで獨特の苦みが感じられなかつた。まことに残念ではあつたが、不意に駆られての飛込みだつたし、土地代を差引けば、値段相応と評してもいい。

 平らげて店を出る時、玉葱天蕎麦の字が目に入つた。春菊天蕎麦と同じ値段。といふことは、掻き揚げ式を乗せてくるのだらう。それを目的に足を運ぶ積りにはなれないが、或日の晝、突然に蕎麦を啜りたくなつたら、駆け込めるくらゐの場所と考へておかう。

 

 まあその突然や不意が、蕎麦と酒菜で呑みたい、だつたら、話はぜんぜん、ちがつてくるけれども。