終日閉門の休日は、陋屋でラヂオを流し續ける。
NHKラジオ第一、文化放送、TBSラジオ、LuckyFMにBAYFM78辺りを、曜日と時間帯…私の休みには平日も含まれる…で切替へる。ただランダムに聴いてゐた筈が、いつの間にやら、聴くプログラムの順序が決つてきて、何だか可笑しみを感じなくもない。
それはさうと、上の一覧、NHKを除いた残りは民間放送である。従つてプログラムの途中で、広告が挿し込まれる。叉プログラムの中でも、通信販賣のコーナーが用意されることがあり…広告代りなのでせうね…、すつかり馴染んだ、どこそこ社の誰々さんの聲もある。一ぺんも買つたことはないけれども。
この時期…詰り年末年始が近くなると、その通販コーナーに登場するのが御節である。何が入つてゐるかは、聞き流すからよく判らない。それにラヂオだから当然、實際の姿も判らないが、ローストビーフだのキャビアだのと謳つてゐたから、“保存性を優先したお重”とは異るのだらうと思ふ。何せ御節と聞いた私の頭に浮ぶのは
焼海老。
棒鱈。
田作り。
黑豆。
きんとん。
根菜の煮もの。
昆布のお煮染め。
玉子焼き。
紅白の蒲鉾。
くらゐ。他に数の子や松前漬けもあつたか知ら。後は御雑煮があれば、正月元日の食卓は完成と思へてくる。我ながらどうも、単純なんだが、云ひわけをすると、御節は少年の舌に、決して美味しいとは思へなかつた。濃い味つけなのに、何とも地味で、例外は御雑煮のおもち、玉子焼きに蒲鉾が精々で、親愛なる讀者諸嬢諸氏もきつと、さうだつたのではないか。
ところが、である。
人生の末期に入ると、その地味な御節が實にうまいから不思議である。お酒をゆつくり含みながら摘む、焚きしめた蓮根や厚揚げの好もしさといつたらない。尊敬する吉田健一は『私の食物誌』の中で
[兎に角、正月に他のものよりも早く起きて既に出来上ったこのおせちを肴に同じく大晦日の晩から屠蘇散の袋が浸してある酒を飲んでいる時の気分と言ったら(中略)この気分で一年を通すことを願うのは人間である所以に適っている]
と書いてゐて、初讀の際にはさつぱり判らなかつたその気分が、今となつては得心出來る。齢経りて舌の具合が変つた所為として、その変化がよほど緩やかだつたのは間違ひない。獸肉より魚介、膏みより赤身、揚げより煮炊き、さういふ嗜好の移り変りが、私の舌をして、御節を好ませるに到つたのだと思ふ。
併し考へてみれば、御節の食べものは、正月三賀日でなくては、口に入らないものではない。仮に御盆の候だつて、御雑煮は用意出來る。風変りだねえと云はれるだらうが、冷房を効かした部屋で、熱い汁椀に舌鼓を打つのは惡くない。ただその惡くないは惡くないだけで、元日の一椀ほどに喜ばしいとは云ひ難い。一年の区切りといふ気分が御節にはあり、その気分が御節の味を引き立て、私を喜ばせる。
來る区切りの元日は、ラヂオから流れる新年の挨拶を聞き、長閑な春になつたなあと呟きながら、お煮染めを酒菜に一ぱい、呑みませう。あと何年、樂めるか知ら。