閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

099 好きなお酒の話

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 ここで云ふお酒は酒類全般を指す。大体のところは呑む。麦酒。日本酒。葡萄酒。焼酎。泡盛。ヰスキィ。カクテル。ウォトカ。紹興酒。ややこしい拘りがあるわけでなく、旨ければ文句はない。併し旨いお酒とは何ぞやと訊かれると、甚だあやふやになつて、麦酒を例に挙げれば、ヱビス・ビールやバス・ペールエイルやギネスは實に旨いと思ふが、眞夏の午后に呑みたいかと云へば、その場合はオリオンやハイネケンのやうに、口当りのかるいのが旨い。日本酒にしても同じで、何か食べながらの時は、淡泊を好もしく感じるが、その後にちよつとしたお漬物なぞを横に呑むなら、輪郭のはつきりした味はひが旨いと思へる。葡萄酒はどうだらうといふと、矢張り、食事中とさうでない場合では、旨いと思ひ、好もしく感じる味は異なつてくる。ケース・バイ・ケースと云へば、確かにその通りだし、わたしが思ふ旨いお酒と、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏が思ふ旨いお酒が一致するとは限らない。自分の中でも纏まりがないのだもの、寧ろまつたくちがふ方を向いてゐるのが自然であつて、たとへ漠然であつても、旨いお酒といふ共通点を見出ださうとするのは無理である。だからその辺のところは諦めて、思ひ浮ぶままに書く。

 それでギムレットの話になる。ジンとライム・ジュースとシロップで作るカクテル。何故ギムレットなのかと云ふと、いきなり呑んで旨いと思へたからである。大坂の中崎町に[サージェント・ペパーズ]といふ小さなバーがあつた。馬蹄形のカウンタだけで、十人も入れなかつたらう。月に一ぺんか二へん行つて、ギムレットを一ぱい、ジャック・ダニエルズのオンザ・ロックを二はい、呑んだ。そのギムレットは甘くなく、ライムの苦みも抑へられてゐて、すうつと入りこんできた。今にして思ふと、夜を呑んでゐたやうな味だつたか。外のバーでも機会を見つけ、ギムレットを呑んでみたが、殆どがシロップの不自然な甘みが際立つか、ライムの苦さが尖つてゐて、成る程吉田健一がこの種の呑みものを“まづい酒を旨く呑ませる工夫”と痛烈きはまりない口調で批判したのも判る。併し例外は認められてもいい筈で、さういへば中野にあつた[Navel]のギムレットも、夜に似た味だつた。[サージェント・ペパーズ]も[Navel]も、いつの間にかなくなつた。

 吉田に与する積りはないが、確かにカクテルは作り手の技倆に依る部分が大きく、仮に優れた技倆の作り手でも、それが舌に適はなければどうにもならない。近い例はヰスキィのソーダ割りで、これも上手が作ると、本当に旨い。ソーダの泡が細やかでやはらかく、氷とヰスキィと、その泡がグラスの中で不可分になつて、呑んでゐるのか、喉に溶け出してゐるのか、どうにも検討がつかなくなる。そんな呑み方は勿体無いよと云ふひともゐるだらうが、それは乱暴な作り方だからで、注意深く作られたソーダ割りは、ヰスキィの味を殺さず、どうかすると、寧ろはつきり判らせる。かういふバーで呑むのに、幾らくらゐ掛かるものだらう。わたしが知つてゐるのは、東中野の判りにくい場所にあるシガー・バーで、葉巻を一本と三杯で五千円とか、そんな程度だつた記憶がある。シガーはあはてて吹かすものではないから、呑む早さも自然と穏やかになつて、気がつけば一時間や二時間はするりと過ぎてゐる。さういつた時間も含めれば、五千円やそこらの値段は妥当と云つていい。家でも似たことは出來なくもないと云はれたら、家に居ると、翌日の予定がどうだとか、月の支払いの残りはどうするとか、呑む以外の何事かがどうしても気になつて落ち着かない。

 ヰスキィで思ひ出したのは、蒸溜所や醸造所で呑むことで、東都に住んでゐると、生麦の麒麟津田沼のサッポロ、府中のサントリーに足柄のアサヒといふ麦酒工場がある。かういふ場所で呑む出來たての麦酒は矢張り旨いもので、事前の工場見學で麦酒醸りの話を訊いたからか、ホップの味まで判る気がする。試飲の時間が十五分とか二十分とか、短いのが難点だが、何せ無料だもの。見學さしてもらつて、麦酒の振舞ひがあつて、一時間ごゆつくりとは云へないだらう。仕方がないから、日本酒の酒藏に行く。これも東都起点で云ふと、西多摩奥多摩に幾つかが点在してゐて、福生の田村酒造場と青梅の小澤酒造には足を運んだことがある。試飲はまあそれなりとして、藏のひとと直かに話せるのはいい。その蘊蓄を抱へて、何を買ふか考へるのも樂しいもので、ここでは小澤酒造の[蒼天]を挙げておかう。我われは“安定の[蒼天]”と呼んでゐる。お刺身なんぞをつまみながら呑むのによく似合ふ。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏へ参考までに云ふと、癖が少なくて穏やかな味はひの日本酒なら、チーズがいい肴になる。もしかして我われのご先祖は、蘇や酪や醍醐で濁り酒を嗜んだかも知れず、 だとすれば随分と洗練された先祖返りといふことになる。

 併しチーズを目の前に呑むなら葡萄酒の方が有り難いと思へて、問題はその方面にまつたく詳しくないから、ボルドーだのブルゴーニュだの云はれても困る。赤か白かと訊かれたら、赤の方が好きで、濃厚でもつたりしたのがいい。かういふのは日本産の苦手とするところらしく、山梨県には多くの醸造所があるが、旨いと思ふのは白が大半で、勝沼にあるメルシャンの[一文字短梢]は、葡萄を刈る鋏で、舌と喉と鼻孔を切りつけるやうなすすどさが快かつた。赤で思ひ出したのは、サントリーの登美の丘で呑んだ[岩垂原 メルロ]で、ヴィンテージは忘れたが、これは可也り旨かつた。濃密で必要以上に渋くはなく、ややこしい感想を口にする前におれは今、葡萄酒を呑んでゐるのだなと思はせる。本当に旨いお酒を相手にすると、我われは論評する積りが失せて、ただそれを呑んでゐるといふ気分になるのだらうか。ただそれを呑んでゐるだけの気分になれるお酒を相手にするなら、余つ程に上等の食べものが必要になる。ことに葡萄酒はそもそも食べものがないと成り立ちにくい性質をしてゐるから、ステイクでもソテーでもフライでもカツレツでも用意しなくてはならないし、さうなると[ティオ・ペペ]が慾しくもなつてきて、スモークト・サモンも序でに慾しくなつてくるから、切りがない。

 さういふ食べものの悩みから距離を置くとしたらヰスキィが最良と思ふ。勝沼甲府から更に長野の方に進むと、サントリーの白州蒸溜所がある。呑む時には食べものが必要なわたしにとつて、ヰスキィは扱ひが六づかしいのだが、呑むと旨い。ことに白州で呑むと、白州といふ土地の所為もあるのだらうか、森が森のまま液体になつて、そのまま流れ込んでくるやうな感じがされる。[白州]銘にも何年といふのがあるのだが、かういふ場合、そこに膠泥するのは大した意味がない。馴れてゐればちがふかも知れないなあと想像は出來るとして、こちらは素人である。見學の後の試飲では、係のひとが“かういふ呑み方で、どうぞ”と薦めて呉れるのを試すのがまづ正しい。それで[グレンフィディック]や[ラフロイグ]、[アードベッグ]といふスコットランドの銘柄を思ひ出した。我が國のヰスキィは非常に品のよい、穏やかな顔つきをしてゐて、水割りでもソーダ割りでもいいのだが、スコッチは獨特の泥炭臭も含めて味なので、“どうぞ”と薦められても、オンザ・ロックまでだらうな。

 ところで同じ蒸溜酒でも、焼酎や泡盛だと、(再び)食べものが慾しくなるのは何故だらう。十数年前、何ヵ月か沖縄に居た時、たいへん世話になつたのが[残波]と[菊之露]で、ぐるくんの唐揚げや苦瓜やポーク玉子をつまみながら呑んだ水割りは、まつたく痛快な旨さだつた。さう云へば、中野にあつた[山ちゃん]といふ呑み屋には、品書きにはない[菊之露]がたまにあつて、苦瓜のピックルス(確かピーマンとパプリカも使つてゐた)と一緒に呑むのは週末の樂しみだつた。いつの間にか暖簾を降ろしたのは、残念で仕方ない。更に連想を續けると、中野の昭和新道通りには、沖縄に縁のある呑み屋が何軒か(または何軒も)あつて、その中の[あしびなー]もいい。呑むのは勿論、オリオンから泡盛。ポークをつまみに呑む八重山の[黒真珠]は實に旨い。さう云へば、一ぺん、“ごーやーカレー”といふのを頼んだら、カレー風の苦瓜でなく、苦瓜をたつぷりあしらつたカレー・ライスが出てきたのには驚いた。[残波]だつたかで平らげたが、カレー・ライスで呑んで、収まつた感じになつたのは多分、その一回きりである。

 ここで話を焼酎に移す。大きく見ると、焼酎と泡盛はほぼ同じ範疇のお酒の筈だが、両者を順に呑むと明らかにちがふ。蒸溜の手順に決定的な差異はないと思はれるのに(尤も蒸溜の方法は色々あるといふ)、何故だかちがふ。尤もわたしが好んで呑むのは奄美黒糖焼酎だから、事情は少々異なるかも知れない。何が一ばん違ふかと云ふと、黒糖焼酎の方が呑み易い。[彌生]、[龍宮]、[長雲]と、思ふに任せ挙げても(多少の癖は感じられるが)、おほむねなだらかな味はひで、凪ぎの日の奄美の海はかうなのだらうと想像がつく。当り前の焼酎…芋麦米…はどうだらう。こちらは稀に[霧島]や[いいちこ]を呑む程度だから、何とも云ひにくい。一度じつくり、味はつてみたいとも思ふが、何をつまみながらにすればいいか、よく判らなくて困る。矢張り薩摩揚げや黒豚の焚いたのになるのか知ら。焼酎の蒸溜所に限らず云へるのは、何とあはせればいいか、示すところが殆どないのは、不思議でならない。例外は葡萄酒の醸造所で、まあ、葡萄酒は食べものがあつてこそのお酒だから、さうせざるを得ない一面は確かにあるとして、凝つたものでなくていいから、うちのお酒には白身の焼き魚を、内臓の煮込みを、チーズに塩辛で、と教へてもらひたいものだと思ふ。

 何だか取りとめなくなつた。加へるにどうも、食べものへの偏りがある気もするが、 かういふ話で食べものに目を瞑るのは、わたしにとつて無理な註文である。それにお酒を旨く呑むのは、食べものだけでなく、季節とか、お腹の調子とか、時間帯とか、独りで呑むのかどうかとか、家なのか店なのかとか、その他諸々の條件が全部、絡む。順番をつけられるものではない。だから冒頭、“思ひ浮ぶままに書く”と記したので、その意味では予定通りの取りとめなさであらう。後のところは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の奔放な空想にお任せすればよく、この稿はきつと、それで完成するのだと思ふ。