閑文字手帖

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241 カレンダー

 川合玉堂

 日本画家。

 奥多摩御嶽にある玉堂美術館の年譜を参照すると、明治六年愛知県葉栗郡外割田村(今の一宮市)生れ。本名は芳三郎。昭和十九年に奥多摩へと疎開し、その地で没した。詳しい紹介文は以下の通り(数字のみ、漢数字に改めた)

 

『近代日本画壇の巨匠、川合玉堂は日本の自然をこよなく愛し、数多くの風景画を描きました。

明治六年愛知県に生まれ、十四歳で京都の日本画家、望月玉泉、のちに円山派の幸野楳嶺に師事し天分を大きく伸ばしました。

二十三歳で東京画壇に転じ、橋本雅邦に学び狩野派を極め、円山・四条派と狩野派を見事に融和させ、日本の四季が織りなす美しい自然の風物詩を情趣豊かで写実的に描く独自の境地を開きました。

東京美術学校教授、帝国芸術院会員など歴任し、昭和十五年文化勲章を受章しました。

昭和三十二年六月三十日没、勲一等旭日大綬章を受賞』

 

http://www.gyokudo.jp/index.html

 

 おそらく晩年だらう寫眞を見ると、おつむりは些かさみしいけれど、痩躯に如何にも明治生れらしい髭を蓄へた、生眞面目な人物といふ印象を受ける。官展の審査員を歴任し、文化勲章やレジオン・ドヌール勲章まで授けたくらゐだから、少なくとも奇人ではなかつたのだらう。明治六年生れには河東碧梧桐与謝野鉄幹泉鏡花がゐる。西郷隆盛が下野したのもこの年。意外なのは仇討ちが正式に禁止され、キリスト教が禁教でなくなつたのも矢張り同じ年。廃藩置県はわづか二年前のことで、詰り江戸式の日本が、(曲りなりにも)近代國家へと変貌する舵が大きく切られた時期…それは四年後の西南軍争で区切りがつけられる…だつた。

 ひどく乱暴な云ひ方をすれば、明治は江戸を何とか捨て去らうと足掻いた時代であつた。少なくともその面はあつた筈で、だからと云つて我われのご先祖を軽んじてはならない。でなければ欧州に追ひつけず、追ひつけなければ國の未來が危ぶまれると信じられた時代でもあつた。さういふ時代の空気を胸の奥底まで吸ひ込んで育つたにちがひない芳三郎少年が、絵画…それも“前時代的”な絵画に惹かれたのは何故だらう。ひとつには少年の周りは、“洋化”が進んでゐなかつたこと(絵と云へば水墨画や浮世絵)が考へられる。更に父親は筆墨硯紙を商つてゐたといふ。ひよつとすると、幼い芳三郎は賣りものにならなくなつた筆と紙で落書きをしてゐたかも知れず、いやこれは想像に過ぎないけれど、切つ掛けを探ると案外、無邪気だつたりもしないだらうか。

 その前に。と我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から質問が出るだらうと思ふ。そもそも突然、川合玉堂を取上げたのにはどんな事情があるんです。勿体振つた理由ではない。ある場所で偶々、玉堂の絵を使つたカレンダー(壁にぶら下げる式)を入手したからで、ふとどんな画家だつたのか、気になつたんである。ね、實に単純でせう。この手の話は遡れば、ややこしくはならないものだ。

 そのカレンダーでは全部で十二枚が使はれてゐる。題材は風景や動物、人物とヴァラエティに富んでをり、見てゐて安心出來る。わたしは日本画について、丸で無知な男なのだが、日本画の骨組みを生眞面目に受け継ぎ、篭中に収めれば、かういふ画になるのではないかとも思へる。ここで改めて生眞面目といふ言葉を用ゐたのは、かれよりわづかに年長の竹内栖鳳(元治元年生れ/昭和十七年没)を思ひ出したからである。栖鳳は一ぺん、観に行つたことがある。日本画の骨格に西洋画の技法が埋め込まれて、本人の性向もあつたのか、息苦しさを覚える緻密な画だと思つたのは忘れ難い。比較が出來るほどの鑑賞眼は持合せないから、そこは慎重に後退りするとして、玉堂には栖鳳ほどのラジカルさは感じられない。但しそれは栖鳳の(いはば)衝撃が優れてゐると云ふのではなく、併し部屋の隅にそつと飾るなら、わたしは玉堂を撰ぶ。我が國の絵画は妙なもので、美術館で麗々しく展示されると、大体の場合、詰らなくなる。屏風や掛軸は茶室なり何なりに置かれて初めて落ち着くもので、時に薄茶を啜り、或は温めたお酒を含みながら、ぼんやり眺めるのが正しい。

 ところで我が親愛なる讀者諸嬢諸氏もご承知のとほり、日本の伝統的な絵画の一特徴である平坦…奥行きや立体性の乏しさは、美術史家が何人も指摘してゐる。正しいと思ふ。ただその指摘は画面自体の構図や描寫に止まらず、それが描かれた屏風や襖(西洋画で云ふところの額)まで含める方が、實態に近さうに思はれる。その平坦…平面性が何を(暗)示してゐるのかは美術史家にお任せして話を逸らすと、カレンダーは日本画と(比較的)相性のよい印刷物と呼べるのではあるまいか。何しろ掛軸風に扱へる。尤も日本画なら選り取りみどりと思ふのは誤りで、役者の錦絵や春画では落ち着かなくなつて仕舞ふ。さう考へると、我われの生活の中にあつて不自然ではない画を描いた玉堂は、明治に生れ、江戸の風を受け継ぎ遺した、優れた画家なのだと云つてもいい。おつむりは少々、さみしいけれども。