閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1321 曖昧映画館〜ガメラ 大怪獣空中決戦

 この“曖昧映画館”で以前、時系列としても公開順としても次作となる「レギオン襲来」を取上げた。この一作目が(相応に)ヒットしたからレギオンにも、その後のイリスにも、登場の機會があつたと思ふと、蔑ろにするわけにはゆかない。

 

 プルトニウム運搬の船が、その輸送中、環礁に接触する。三千メートルといふ深さを考へれば、あり得ない位置なのに。然もその環礁は、暫しの後、姿を消す…岩礁がさう簡単に、移動するものだらうか?

 時を同じくして、鳥類學者の長峰の勤め先に、恩師から聯絡が入る。手助けが慾しかつたと思へるが、それは直ぐ、途切れてしまふ。その身に何があつたのか?兎に角、足を運ばねばならない。

 ふたつの奇怪な事象と状況は、博多でひとつに纏つてゆく。長峰の恩師を喰ひ殺したと覚しき、巨大な鳥のやうな生物と、岩の塊のやうなこちらも巨大な生物。捕獲か、排除か。そもそも二体の巨大生物は何なのか。

 劇中、ギャオスと名附けられた鳥に似た生物は、自然界の生物では、持ち得ない遺伝子を有してゐると判る。そしてガメラと呼ばれるもう一方の生物は、ギャオスへのカウンタとして造られたらしいことも。

 

 色々詰めこんでゐるなあ。

 この点はまあ、止む事を得ない。これは“ガメラ映画のリスタート”だから

 「かういふ設定なのですよ」

観客…貴女や私…に知らしめねばならないもの。併しそこに、オカルト的な要素まで含めたのは、どうだつたらう。人間側の事情とガメラを絡めるには

 「さうせにやあ、ならんかつたのだ」

と云はれたら、すりやあ仕方がありませんなあとは応じるけれど、だつたら(本人にはまことに失礼ながら)その役割を、藤谷文子に任したのは、よい判断ではなかつたとも、つけ加へたくなる。それでなくても、たつた九十分に収めるには、無理のある構成の中、上手とは云ひにくい演技が散りばめられると、観客のひとりである私としては困惑する他にない。

 

 (括弧書きで云ふと、このオカルト路線は、次作でもう少しはつきり描かれ、三作目に到つて、中心的な位置として結實する。好みの話にはなるが、私が三作目をもうひとつ、評価しかねる大きな理由はここにある)

 

 併しガメラは怪獸映画である。

 怪獸映画は、町や建物を景気よく、花やかに潰さなくてはならない。

 この辺りの呼吸を特撮を、担当した樋口真嗣はよくよく理解してゐて、前半の博多と福岡ドームを打ち壊す場面、クライマックスに續く東京都心でのガメラ対ギャオスは、当時の技術を考へると、非常によく出來てゐた。ことに街中を低く飛ぶギャオスとガメラの追跡戰は、よくやつたと、膝を打つてもいい。

 更に云へば夕暮れ、へし折れた東京タワーの上に佇むギャオスの姿を逆光で見せる、“平成のガメラ映画”全体を印象附けるカットや、天高く舞つたガメラとギャオスが、ほんの一瞬、静止する場面(これは三作目、“京都上空のイリスが、月光に照らされる場面”で、技術と演出の両面とも完成する)も、この映画だつた。

 物語の纏まり…構成に不満が残るのは、本心であるけれど、“昭和の彼方で終つてゐた映画”を最初から作り直さうとした気概と行動は、手を拍つに値する。秋の夜、一ぱい呑みながら樂むのに、よく似合ふ。